「谷川さんは年賀状で『福崎さんも頑張って』とか『いつまでそんな成績で寝ているんですか』と、毎年くれてましたよ。僕はあんまり年賀状を書かないタイプなんで、もらうばっかりでしたけど(笑)。谷川さんはすごく育ててくれるというか、人柄がいいんですよね。自分たちが若いときは谷川さんを見て、自分もできるかなという励ましを受け取ったんじゃないですか。仲間だから、谷川さんの棋譜や欠点も知っているわけですよ。谷川さんがトップに通用するんだったら、自分だと準優勝とか本戦入りできるんじゃないかなって思えますもん」(福崎九段)
翌年、福崎王座に挑んだのは羽生善治棋王。結果は3連勝で羽生が奪取し、3年後の1995年に七冠独占を達成する。
「羽生さんが出てきたのは嫌でした。でも、いまでも楽しかったかな。羽生さんは純粋で素直。感想戦でも自分に都合の悪い手も赤裸々にいうから、感心しました。最後に岐阜で負けたけど、次の日に金華山の岐阜城にいくってなったら、羽生さんもついてきたんですよ。勝負がすんだら、めっちゃくちゃ屈託ないんですよねぇ。谷川さんも羽生さんも目がきれいというか、高尚な感じがしていました」
過去最長は中原―加藤戦の「十番勝負」
最後は1点勝負、豊島が永瀬の駒を1枚取るかどうかの攻防に絞られたが、1二の香を竜でにらんだのが大きくて確保に成功する。22時5分、豊島から永瀬に声をかけ、持将棋が成立した(第8図=222手目△2四金まで)。
福崎九段が対局室に入り、対局規定を丁寧に説明していく。焦点は当日に指し直すか否か。マスクをつけた両対局者の表情は読み取れなかったが、福崎九段が「ふたりが元気いっぱいでしたら、できるんですけども」と声をかけると、豊島の目が笑っていた。ややあって、ともに即日の指し直しを行わないことに合意し、感想戦に移った。
第1局の千日手(永瀬は40局目、豊島は19局目)、第2局の持将棋にニコニコ生放送ではあの名勝負を懐かしむ声があがった。七番勝負で「十番勝負」にもつれ込んだのは、1982年の中原誠名人と加藤一二三十段による第40期名人戦七番勝負。第1局で持将棋、第6局と第8局で千日手が成立した(※いまと当時では、持将棋や千日手の対局規定が異なる。現在、持将棋は引き分けだが、中原ー加藤戦のときは、タイトル戦の持将棋を0.5勝としてカウントしていた。もし第7局で持将棋になった場合は、加藤3.5勝、中原2.5勝に0.5勝ずつが足され、加藤の名人奪取が決まっていたのである)。
そこには藤井聡太も参戦してくる
最終局に勝った加藤は初めて名人の座につき、中原の連覇は9で途絶えた。そして、その翌年に谷川浩司が加藤をくだし、名人を史上最年少の21歳で獲得する。群雄割拠の状況が実現するのは、谷川名人誕生から4年後のことだった。
令和の覇権をかけて、永瀬と豊島はトップでぶつかっていくだろう。そこには藤井聡太も参戦してくる。永瀬は棋聖戦と王位戦の挑戦者決定戦で敗れ、トリプルタイトル戦(そんな言葉は聞いたことないが)を逃した。豊島は藤井聡太に公式戦4戦全勝と貫録を示しているが、昨年の名人獲得後の記者会見で次のように語っている。