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ソレ撃つて 落して万歳!

 当時の防空は、軍による防空(軍防空)と、国民による防空(民防空)に区別された。大規模な防空演習は、軍の訓練だけではなく、国民を防空体制に組み込み、その生活を統制する目的もあった。

 そのために、国民に灯火管制、消防、防毒などさまざまな義務を課す防空法の制定が模索されたが、関係省庁間の調整が手間取り、1937年4月になってようやく公布された(施行は10月)。この前後より、防空ソングの内容も具体的になっていく。

東京・目黒の日の出高女での防空訓練(昭和15=1940年1月) ©共同通信社

 1936年の「防空音頭」(伊藤和夫作詞、大村能章作曲)は、音頭の拍子にあわせて、敵機を落としていくというユニークな防空ソングだ。やや滑稽だが、内容の面では、以前より能動的なものとなっている。

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空の護りも軍民一致 ヤットヤットナ
まこと捧げて まこと捧げて 国の為
ソレ撃つて 落して万歳! 万歳!
どどんがどんと撃て どんと落せ

「身を守る防空」から「身を捧げる防空」へ

 日中戦争の勃発をはさみ、1939年4月には警防団令が施行され、防護団は消防組と統合されて警防団となった。翌年の「警防団歌」(大日本警防協会作詞、東京音楽学校作曲)では、やはり防空が強く訴えられている。

水と火を防ぎて我等 空襲を阻みて我等
ただ強く使命を奉じ 死を超えて誓ひ果さん
あゝ警防団 生命は軽し

 同じ防空でも、以前のそれとは大きく異なる。「身を守る防空」は、1930年代後半に「身を捧げる防空」にすり替えられたのである。

昭和8(1933)年8月9日の「関東防空大演習」の様子を伝える紙面(東京朝日新聞8月10日付夕刊より)。国民も訓練に動員された

本土空襲の現実を前に、防空ソングは有名無実化

 太平洋戦争が近づくと、致命的な空襲も現実味を帯びてきた。1941年10月、ラジオで放送された「なんだ空襲」(大木惇夫作詞、山田耕筰作曲)では、具体的に防空の手順が示された。

焼夷弾なら 馴れこの火の粉だよ
最初一秒 ぬれむしろ
かけてかぶせて 砂で消す
見ろよ早技どんなもんだ もんだ

 同時期に放送された「空襲なんぞ恐るべき」でも、国民は恐れずに、空襲に立ち向かうべきだとされた。空襲から逃れるべきという発想は、防空ソングには希薄だった。

 対米英開戦後も、防空ソングは増え続けた。「防空監視の歌」や「隣組防空群の歌」などがそれにあたる。防空ソングはいまや挙国一致の歌と成り果てた。

相馬御風(左)とサトウハチロー(右)も「防空ソング」を作詞した ©文藝春秋

 1942年の「防空監視の歌」(相馬御風作詞、古関裕而作曲)はこう宣言する。

同じ覚悟だ みな戦友だ
安心してくれ 兵隊さんよ
故郷の空は 鉄壁だ

 ただ、じっさいに本土空襲がはじまると、皮肉にも防空ソングは低調になっていった。報復を誓う「敵の炎」(サトウハチロー作詞、古賀政男作曲)のような歌はむしろ例外的だった。

見よ無礼な姿 敵の翼をば
残らず折るぞ 近き日この仇を

 本土空襲の激しさを前にしたとき、「最初一秒ぬれむしろ、かけてかぶせて砂で消す」とはいかなかったのだろう。こうして肝心の場面になったとき、防空ソングは姿を消したのである。