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“死体の腹の傷に綿を詰めて縫う”博士

 その後も、各紙は連日大々的に事件を報じる。大連新聞9月27日付夕刊は「腹部に綿を詰め 博士が自らぬふ(縫う)」の見出しで被害者青柳の解剖結果を報じた。

「死体は頭と足部をひもでくくりエビのように丸めたのを、腹部に毛布を巻き、その上を布団の包布でしっかと包み込んであったが、負傷個所は胸部2カ所、頭部2カ所、顔面2カ所、その他全身十数カ所に上り、致命傷は頸部甲状軟骨に達する一刺しで、腹部の傷には綿を詰め込んだうえ縫うており、児玉博士が執刀、処置した形跡歴然としている」

 さらに勝美は中園と同じ船で大連を離れ、「門司に上陸後、故郷へは立ち寄らず、陸路大阪、尾道、京都と転々、足跡をくらましつつ」逃亡していることも伝えた。

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 同日夕刊では夫妻の出身地・長野の地元紙「信濃毎日新聞」も「児玉博士憤怒に燃え 愛妻の若き燕を惨殺す 小縣(県)和出身の満鐵(鉄)衛研科長」の見出しで報道している。

 中では「美しいお姫様 勝美夫人の生立ち」として、同県南安曇郡豊科町(現安曇野市)の素封家の一人娘で、松本高等女学校を経て青山学院を卒業。父の時代は大地主で殿様のような家勢で、その後事業の失敗で零落したが、勝美が育ったころはまだ「下にも置かぬお姫様のように育ち」「稀に見る美人であった」と書いている。

凶行が演じられた児玉博士邸(「主婦の友」1933年11月号より)

 大連新聞の9月27日付朝刊には被害者青柳の手記が掲載された。「中年女の執拗な肉欲に捉えられて遠からず不幸の結果が襲うことを予感したもののごとく、死の数日前に」書いたものだとしたが、知人の女性ピアノ教師の紹介で会った後、繰り返しダンスやカフエーに誘われ、「あまりの勧めに対してかわいそうな気になりました」と親しくなった経緯をつづっているが、その後の核心の部分が書かれていない。

 同紙は9月28日付夕刊で、児玉が満鉄衛生研究所長に辞表を提出する際、「これまで学究に没頭していたため、夫人が自由の愛を街頭に求めるようになったので、悲劇の大半の責めは自己にある」と漏らし「翻然夫婦愛の欠如に悔恨の涙を流す」と記述。所長が博士から聞いた「夜、知らぬ男が二人来て僕の眼前でけんかを始めたので、僕は止めようとして手のひらにけがした。手伝わねば共犯に巻き込むというので、死体の処置をした」との話を伝えた。

 それでも、9月28日付の同紙朝刊は博士が調べに対し「問題の核心に触れると、記憶がないと逃げ、しどろもどろの陳述ぶり」で、「博士の計画的犯行か」(見出し)と疑わせるなど、事件の解明は進まなかった。9月29日付同紙夕刊は「果然!青柳惨殺は 児玉博士自身の手で」と書くほど。

 一方で、勝美と青柳を引き合わせたピアノ教師や児玉から依頼された弁護士の動きが取り上げられるなど、報道はエスカレートし、錯綜。読者は熱狂した。

 そこには間違いなく、時代の流れへの不安がひそんでいたはず。前前年の1931年、軍部は満州事変を引き起こし、1932年には「満州国」が成立。「昭和の35大事件」で取り上げた「天国に結ぶ恋」坂田山心中が起き、「五・一五事件」が発生した。そしてこの1933年、三原山で心中が多発。作家小林多喜二が逮捕・虐殺される。3月、国際連盟脱退。夏には「東京音頭」が大流行するが、人々に不安がなかったといえば全くのウソだろう。

 やけくそな気分が混じっていたのではないか。そんなときにこの事件は「植民地での上流階級の性的乱脈」を露わにして、のぞき見的興味をかき立てたのだろう。