昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/01/20

 私はマエケンの申し出を退けることができなかった。彼をそのまま打席に向かわせた。

 ただし、そのことでジョンソンへの継投は流れることになってしまった。ジョンソンは前回の登板から中3日という状況。試合前の話し合いで「肩を作ったらすぐに投げさせてくれ。二度三度と肩を作ることはできない」と言われていた。ブルペンで肩を作った直後なら登板できるが、一回作って休んだ場合、肩が冷えてしまうのでマウンドでは投げられないという取り決めが事前に結ばれていた。

すべては私の監督としての決断力のなさ

 その結果、7~8回をジョンソンで行くという案は崩れ、新たな継投が必要になった。志願のマエケンは7回を投げたものの、そこで限界を迎えてしまった。9回は中﨑が投げるとして、黒田に延長戦を託すとしたら、じゃあ8回は誰が行くか?──私の中では大瀬良しかなかった。

©iStock.com

 本来この日、大瀬良が登板する予定はなかった。不測の事態が起こったとき、最後の最後の選択肢として彼に投げてもらうかもしれないという意図でベンチに置いている状態だった。

 すでに大瀬良が登板過多になっていることは知っていた。人差し指に血行障害が生じて、満足にボールを握れないこともわかっていた。大瀬良はチーム事情でシーズン途中に中継ぎに回り、文句を言わず大車輪で働いてくれた。そのツケが回ってきていたにもかかわらず、私は最後の最後まで大瀬良に頼らざるを得なかった。

 そして彼は打たれた──それはシーズンを通じての彼の酷使がもたらしたものだった。大瀬良がベンチで流した涙は、私が流させたようなものだった。

 さらに言えば、私がマエケンに対して非情になれていれば、あの場面で大瀬良が投げることはなかった。あの瞬間、私の中に迷いが生じてしまった。そう考えるとあの失点は必然であり、すべては私の監督としての決断力のなさに起因する。

 大事な最終戦での敗戦に対して、ファンが感じた怒り、悲しみ、悔しさ、情けなさ……は並大抵のものではなかった。試合後、マツダスタジアムで行われたセレモニーでは怒号や罵声が降り注いだ。

z