煉瓦塀が続く拘置所通りは、朝だというのに、まだ夏の名残の強い日射しが容赦なく照りつけていた。
詩織は、面会室で、こう言った。
「兄の携帯電話の番号がわかりました。何かの役に立つかもしれないと思います。それと子どもたちへお小遣いをもっていってください。宅下げします」
宅下げとは、拘置人が、手続きをして現金などを拘置所以外の人間に委託することだ。詩織は浅草の風俗店で稼いだかなりの金を持っていたようだが、茂の殺人未遂容疑とは関係ないので没収されてはいない。宅下げされた金は30万円。中国の田舎なら一家が2、3年暮らせる額だ。それと携帯番号を聞き、私は07年9月14日午後7時、成田発の中国国際航空168便北京行きに乗った。日本では安倍晋三首相が突然の辞任表明をし、政界が揺れに揺れていた時期だった。
無謀な旅路
「そんな住所もハッキリしない相手を学校を通して探すのは不可能だ。まして、その後、女性の出身地の田舎に、この日程の中で行くなど無謀とすらいえる」
深夜北京入りした翌日の昼、北京の旅行コーディネーター・王(仮名)と中川、私の3人で、私の単独ハルピン行きの旅程をチェックしている最中、再び中川が匙を投げるように言った。
中川は、前述したように中国に関しては、並みの中国人よりもはるかに多くの知識と経験を持つ。さらに中国政府内にも、日本の在中国外務省関係者にも多くの知り合いがいる。
その中川が、学校を通じて人を探すのは絶望的で無理がある、と再度言いだしたのだ。
中川の懸念は3つあった。
誘拐を疑われること、住所が分かりにくいこと
「中国では一人っ子政策で子どもが非常に大事にされている。一方で、治安は年々悪くなっていて誘拐などの犯罪も頻繁に起きる。地方では人身売買が半ば公然と行われている。だから、朝晩、子どもたちを親が送迎するのはあたりまえ。そして、一度、校内に子どもが入れば門が閉められ、外部の者は、なかなか入れない。学校によっては門に警備員が立つ場合もある。それぐらい学校は厳重を極める。そこに、いきなり見知らぬ日本人が訪問し、先生なり、子どもの名前をあげて会いたいと言っても、中国人にはなかなか理解しがたい行動だろう。やはり、省とか政府とか何らかのパイプを通すのが無難と思うが、そうした措置を取る時間が無い。
さらに、女性の住所だが、大まかな地域名しかなく、枝番号(所番地)もなにもない。田村さん、中国の広さは日本の比ではないんですよ。隣り村といったって、20キロも離れていたりして移動するのに何時間もかかる」