面会室の透明なアクリル板越しに説得すると、彼女は、みるみる大粒の涙を両目に溢れさせ、こう言った。
「お姉さんと連絡とってみます」
06年2月7日の逮捕直前、姪に「送金するから。次の電話を待っていてね」と連絡したままフェードアウト、それ以降彼女は塀の中。姉夫婦に預けたままの子どもたちが、気にならない筈はなかった。
連絡が取れたのは小学校経由
しばらくして面会に行くと詩織は嬉しそうな笑顔を向けてきた。
「姉夫婦の住まいの連絡先が不明だったので、子どもたちが以前通っていた小学校に連絡したら、やっと義兄のほうから連絡がありました。学校の住所はハルピンから車で4、5時間行った黒龍江省五常市の××です。そこで○○先生を訪ねてくださいとのことです」
しかし私は不安になった。なぜ学校なのだろう。義兄は住まいをどうして教えてくれないのだろうか。刑務所への手紙での連絡だったため、詩織も、その辺の事情を詳しく知ることが出来なかったようだ。一方で、私自身も、中国の田舎の貧困度が、人々の住まいの安定すらも脅かしているという現実を、その時、全く理解できなかったのだ。義兄は当時、住み込みで働いていて住所が定まっていなかったのだ。
中国訪問は、長年の友人である中川(仮名)と同行することになっていた。中川は貿易関係の仕事をしており、かつて北京に10年近く住み、現在も月に何度も往復している大の中国通だ。しかし、詩織の係累を尋ねるハルピン行きには仕事の都合で同行しない。私ひとりでの人探しの旅となる。その事情を中川に話すと、彼は眉を曇らせた。
「日本の政府か公的機関の紹介状なしで、いきなり中国の地方の学校で子ども探しは難しいぞ」
しかし、唯一の手がかりはそれだけ。行って当たってみるしかない。詩織は自分の生地の住所も最後にやっと教えてくれたが、そこには今、親戚も誰も住んでいないという。
「子どもたちへお小遣いを」
いずれにしろ、私は北京に出かける準備をはじめた。その最中、東京拘置所から電報が届いた。
“至急会いたい 詩織”
出発前のあわただしい中、私は、控訴審のため「小菅」の東京拘置所に移っていた詩織に会いに行った。