父も母も大正生まれ。大正教養主義にどっぷりの人でした
岡村 髙村さんは3人姉弟の長女でいらっしゃいますけれど、ご両親の教育というのは、弟さんたちにも同じようでしたか? 男の子と女の子で区別があったりは。
髙村 そこの区別はありませんでした。ただ、すぐ下の弟は小さい頃から非常に音楽の才能があったので、「この子はチェリストになる」「させる」と、徹底的に英才教育をしてました。残念ながら、私が大学生のときにガンを患い亡くなってしまいましたが、彼には全然別の期待をしていましたね。
岡村 お母さん自身にも相当な音楽の素養がおありだったんだ。
髙村 ただ、私は小さいときに気づいたんです。「あ、この人、音痴だ」って(笑)。母は自分でピアノを弾いてドイツ語で歌をうたう人だったんです。シューベルトとか。でも、それを聴いた私は、これは絶対に音程がおかしいと。
岡村 さすが観察者ですね(笑)。それを指摘したりは?
髙村 いや、言わなかったです。まあいいかと(笑)。
岡村 でも、すごくモダンなお母さんですよね。化学者であり、ドイツ語で音楽も嗜んでいて。
髙村 父も母も大正生まれで大正教養主義にどっぷりの人でした。終戦後すぐに大阪フィルハーモニーのベートーヴェン・チクルス(コンサート)があって、そこで初デートをしたそうなんです。
岡村 なかなかおしゃれですね。音楽ならばご両親と価値観が共有できそうな気もしますけれども。
髙村 なかったです。とにかく、すべてにおいて、親と反対のことをしたかった、しなくちゃいけないと。親のようにはなるまいと。
岡村 僕も結構そういう部分はあったかもしれません。でも、本当に不思議なんですが、この年になって気づいたんです。ああ、自分には親と同じ要素があるんだなと。父と同じような口癖が出てくると、あれ? って思うことがあります。
髙村 私も、外見は親に似てきたと言われます。でも、中身はまったく違いますから。まず、私は戦争の時代を生きた親ほど苦労をしていない。私なんか戦後のいちばんいい時期にのほほんと生きて大人になった世代。呑気で甘さがあるんです。自分は恵まれた人生だったなと思いますよね。
弟が生きていたなら、私はモノ書きにはならなかったと思う
岡村 お話を伺っていると、お母さんの厳しさが、結果的に、髙村さんを作家たらしめたのではと想像を豊かにしてしまいます。
髙村 うんと広ーく捉えれば、そうでしょうね。普通に結婚して、普通に家庭築いて、普通の奥さんになって、という人生を選ばなかったから物書きになったんでしょうし、それは言い換えれば、親との関係があまりよくなかったから、と言えるのかもしれませんね。
岡村 夭折された弟さんのことはどうでしょうか? 髙村さんに影響を与えたのでしょうか?
髙村 彼が亡くなったのは20歳、私が22のときですから、もう忘れるぐらい昔のことです。生きていたら、まず弟は間違いなく音楽家になっていたと思いますので、家族そろってみんなで弟のためにという人生になっていたと思います。だって、親は、チェロを買うために土地や家を売ると言ってましたから。
ああいう楽器って億単位のお金がかかるんです。土地や家を売って、それで弟に楽器を買って留学させようと、そういう人生になるはずだったんです。