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「50人を土下座させ、1人ずつ木刀で腕、指、歯を折る。そして橋から…」半グレ集団「怒羅権」元幹部が語る喧嘩の作法

『怒羅権と私 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』#1

2021/02/20
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1人の仲間がヤクザに殺された

 もう1つの大きな転換点が同年8月の通称「朱金山事件」です。

 その日、1人の仲間がヤクザに殺されました。

 殺されたC君は怒羅権から足を洗っており、普通の職について真面目に働いていました。久しぶりに私たちに会いに来てくれて、給料で焼き肉をごちそうしてくれることになっていました。

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 その焼肉店はヤクザが経営していました。店内にいたヤクザ3人に因縁をつけられ、乱闘になりました。その渦中で、C君はよってたかって押さえつけられ、呼吸ができなくなり、命を落としたのです。

 ヤクザに対する怒りもありました。しかし、警察と司法の対応も納得できるものではありませんでした。司法のくだした結論は、ヤクザがC君を押さえつけたことと、彼が命を落としたことには因果関係がないというもので、ヤクザが罪を問われることはなかったのです。

汪楠氏 ©️藤中一平

 私たちが不良だからでしょうか。私たちが中国人だからでしょうか。それがC君の死の理由になるのでしょうか。警察やヤクザといった強き者が行った私たちに対する理不尽は、私たちが日本の中学校で直面したいじめと重なりました。

 とくに警察に対する怒りは凄まじいものでした。マスコミには出ていませんが、当時は警察の不当な暴力で命を落とした仲間が少なくありません。集会のときに、バイクの車輪に警棒を突っ込まれて転倒して死んだ者、自動車で走行中に警棒で窓ガラスを割られ、衝突事故を起こして死んだ者など、いくらでも挙げられます。警察の中には私たちのような外国人を無条件で差別する者が当時珍しくなく、私たちは人間扱いされていなかったのです。

 そうした理不尽に対する怒りはまもなく暴力という形で結実し、90年代に入ると怒羅権は社会問題となるほどの凶暴性を帯びていくことになるのです。

「火炎瓶を積んだバイク」で警察を襲撃

 警察を襲撃というと、あまりにも反社会的であるという印象を抱くかもしれません。しかし、怒りに突き動かされた私たちにとってそれは自然な成り行きでした。先述した朱金山事件以後、みんなが一斉に警察を襲撃し始めたのです。

 一度行動を始めると、集団心理が働いてどんどん過激化していきます。「あいつらがパトカーの窓を割ったらしい」と聞けば、「俺たちは交番を襲って拳銃を奪おう」といったように、どんどん行動はエスカレートしていきます。そこには躊躇も、恐怖心もありませんでした。

※写真はイメージ ©️iStock

 私も仲間5人で江東区の深川警察署に放火しにいったことがあります。火炎瓶を積んだ原付きバイクを走らせ、警察署が目前になったら飛び降りる計画でした。

 私たちのイメージとしては、そのまま映画のようにバイクが走っていき、警察署に衝突して爆発するというものでしたが、実際はうまくいきませんでした。

 飛び降りたときにバイクも転倒してしまいました。火炎瓶が割れ、バイクは火だるまになりながら道路を滑っていきました。立ち番をしている警官からすれば、火だるまになったバイクと少年が転がってくるのですから、さぞ驚いたことでしょう。

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