事情が分からないままバスに乗せられた人たち
福島県は午後8時50分、原発から2キロ圏に避難指示を出した。政府も同9時23分、原発から3キロ圏内を避難指示区域とした。そのための「中学校への集合」だったのだが、杉本さんらに詳しい情報は伝えられなかった。
間断なく余震が襲う長い夜、ようやく明けたと思ったら、「バスが来るので避難して下さい」と消防関係者に言われた。「どこへ行くんだ」と尋ねると、「都路の方へ、としか聞いていません」と言う。都路とは、峠を越えた内陸部の旧都路村だ。平成大合併で同県田村市の一部になっている。
この時、事情が分からないままバスに乗せられて帰れなくなった人が多かったが、杉本さんはピーンときた。「原発で何かが起きている!」。慌てて妻の薬を取りに自宅へ戻った。バスは先に出たので、急いで車で追いかけた。
その後は、町役場と一緒に田村市へ、さらには原発から100キロメートルほど離れた同県会津若松市へと逃げ延びた。
「あんたらはいいな。東電からおカネがもらえるんだろう」
同年の冬、会津若松市では特産の柿がいつまでも赤々と畑を染めた。会津地区の放射能汚染は他県並みかそれ以下だったが、風評被害で売れなくなったのだ。避難先で何もすることがなくなった杉本さんは、散歩を日課にしていた。歩いていると柿農家に出会う。
「どこから来たのか」と問われて、「大熊からです。お世話になっています」と答えた。すると農家は「あんたらはいいな。東電からおカネ(賠償金)がもらえるんだろう。俺らはこんな状態なのに」と吐き捨てた。
「おカネなんて要らない。帰りたい」。涙が込み上げたが、「すいません」と謝るしかなかった。謝罪しなければならないのは東電である。が、避難先で受け入れてもらうためには、歯を食いしばって耐えるしかなかった。ただ、農家のつらさも痛いほど分かった。
福島県内で除染が始まると、政府は原発周辺の約1600ヘクタールを用地買収して、中間貯蔵施設を造ると決めた。県内の汚染土壌などを処理・保管するための施設である。夫沢1区はまるまるその敷地とされ、帰還は完全に不可能になった。被災前に86戸あった夫沢1区は「土地のない地区」となり、それぞれどこかに居を定めなければならなくなった。