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 杉本さんは、同県でも太平洋岸のいわき市に中古の住宅を買った。県外に落ち着いた人もいる。こうしてバラバラになった夫沢1区の人々は、毎年開く地区の総会以外に集まる場がなくなった。だが、その総会すら新型コロナウイルスの流行で開けなくなっている。

先祖代々の墓を移転しなければならない

 それだけではない。中間貯蔵施設の用地では、先祖代々の墓の移転を求められた。遺骨を掘り返して改葬するのである。土葬の場合は改めて火葬し直す。

 ところが、全域避難の町には改葬先がなかった。

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「ようこそ」の看板もバリケードの向こうに

 町内で初めて帰れる土地ができたのは避難から8年も経過した19年4月だ。被災前の人口の4%が住んでいた地区に過ぎないが、ようやく政府の避難指示が解除された。同年中に町役場が「やすらぎ霊園」を造成すると、杉本さんはここに墓を求めて、掘り起こした遺骨を埋葬した。

「新居」の近くに墓所を設けなかったのは、「せめて墓参の時に大熊の皆に会えたら」という思いがあったからだ。自宅は取り壊された。盛り土がなされて、家の痕跡すらない。そんな杉本さんにとって、霊園はわずかに残された「大熊町との結び目」なのである。

帰れない人々にとっての「復興」とは?

 同霊園に墓を建てた人の中には、「『帰りたい、帰りたい』と言っていたのに、ついに帰れずに亡くなったおじいちゃんのために、せめてお骨だけは戻してあげたかった」と話す避難者もいる。

 ただ、避難から10年という長い年月が経ち、「定住」先に墓を求める人が増えているのが実情だ。杉本さんも、自身の墓は大熊町でなくていいと考えている。「嫁に行った2人の娘が参りやすいところに」と話す。

熱心に墓石を掃除する人がいた(やすらぎ霊園)

 こうした帰れない人々にとって、「復興」とは何を意味するのか。

 大熊町では、避難指示が解除された区域に新しい役場が建てられた。帰還者用の復興公営住宅も92戸が建設された。しかし、帰還者はようやく130人を超えたばかりだ。被災時の人口1万1505人に比べると、あまりに少ない。

 先が見えないまま、異郷で暮らす人々。その最後の結び目となる霊園は、本当に「やすらぎ」の場となるのだろうか。

出典:「文藝春秋」4月号

「文藝春秋」4月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載の「〈福島・大熊町〉やすらぎ霊園物語~骨だけでも故郷へ」では、霊園に墓を求めた人々を訪ね歩き、過酷な10年間や切実な思いを詳述した。

文藝春秋

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福島・大熊町 やすらぎ霊園物語〜骨だけでも故郷へ