文春オンライン

「そんなサービスやりたくない。けどお客さんを…」吉原のトップ風俗嬢・桃子が明かした“心遣い”《日本最大の色街のいま》

日本色街彷徨 東京・吉原 #1

2021/06/05
note

当時を知る人が語った「阿部定の記憶」

 3度目の緊急事態宣言が出されて間もない今年5月、私は吉原の状況を取材するため東京メトロ三ノ輪駅から、歩いて吉原に向かった。

 吉原へと向かう道筋から少し外れるが、駅から歩いて5分ほどで竜泉の町につく。将来吉原の遊女になることを宿命づけられた美登利という少女が主人公の樋口一葉の『たけくらべ』の舞台となった。そして、恋人のイチモツを切った阿部定が、事件後おにぎり屋をやっていた場所でもある。樋口一葉の像がある千束稲荷神社の向かい側に阿部定の店はあった。その場所を訪ねてみると、今も当時の建物が残っていた。

浄閑寺の遊女墓 ©八木澤高明

「あの阿部定がここに確かにいたけど、店にもいったことはなかったし、たいしたことは何も覚えていないんだよ。ただの婆さんだっていう記憶ぐらいかな」

ADVERTISEMENT

 近所の人には阿部定の記憶が残っていた。そしてここ竜泉には、遊廓文化華やかりし頃、吉原遊廓で働く娼婦たちが、多く暮していた。今では住宅街となっている竜泉だが、吉原という世間の中での離れ小島のような土地と密接に繋がっていた。ここで世間から蔑まれた阿部定が、店を開いていたことからも、娼婦に対する土地の包容力を感じずにはいられない。

 竜泉をあとにして、10分ほど歩くと、吉原のソープランドの看板が目に入ってくる。微かに吉原の土地が高くなっていることに気がつく。かつて吉原は、お歯黒どぶと呼ばれた堀で囲まれていて、遊女たちが逃げ出せないようになっていた。すこし高くなっているのは江戸時代の名残りである。

お歯黒どぶ ©八木澤高明

 吉原の区画は、この場所に移ってきた1657年から350年以上変わらず、町の名前も当時のままである。江戸時代初期に産声を上げ、戦後の1958年に施行された売春防止法により、遊廓からはじまった吉原と売春の歴史は途絶えたかと思われたが、ソープランド街として生まれ変わった。

 そもそもソープランドは1951年に吉原ではなく、東銀座で産声を上げた。「東京温泉」と呼ばれ、20人のソープ嬢からはじまった。その後トルコ風呂と名乗ったが、後にトルコ大使館からのクレームにより、ソープランドと呼ばれるようになった。ソープランドが初めて吉原にできたのは、1958年8月のことで、当時の入浴料は700円、今でいえば1万円ぐらいの価値だった。