「人間には不可能な大ジャンプ」を許すか、許さないか
ある時期から、日本のアニメ表現において、リアリティラインの問題は、クリティカルな問題であり続けてきた。『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』などの作品で知られる押井守は、1984年に書いた文章(「前略 宮崎駿様――〈漫画映画〉について」)の時点で、自身も含むアニメの作り手が抱え込む問題を鋭く抉り出している。
この文章の中で押井は、宮崎の当時の代表作である『未来少年コナン』において、主人公とヒロインが高所に追い詰められた絶体絶命のピンチを、人間には不可能な大ジャンプをすることで回避するシーンを例にとる。
そこでは、作品の別のシーンにおいては要求されているリアリティの水準が破られている。『コナン』の世界は、銃や爆発で人が死ぬ世界なのだから。にも関わらず、宮崎の天才的な作画技術の生み出す快楽によって、視聴者には疑問を抱く余地が与えられない。これは絵が動くことのおもしろさを主眼に置いた〈漫画映画〉であれば許されてきた表現だが、アニメが〈劇(ドラマ)〉を獲得し、〈映画〉になることを目指し始めたあとでは、このようなリアリティの統一性のなさは戒められるべきではないか、と。
日本のアニメ「リアルと嘘」のせめぎあい
この文章が書かれたあと、日本のアニメは劇場作品に限らず〈劇〉の要素を強め、現実離れした描写によって生まれる映像の快楽と現実に根ざしたリアリティとの間でせめぎ合いながら、適切なバランスの線引きを探り続けてきたように、私には感じられる。リアルだと思わせる作品の中に巧妙に嘘が混ぜ込まれ、逆にファンタジーの説得力を増すためにリアルな描写が突き詰められる。
『スーパーカブ』も、まさにそうした問題系の興味深いケースのひとつだ。また、「ラブライブ!」シリーズや『ガールズ&パンツァー』のように、東京や静岡、茨城の実際の街が「聖地」として認識され、各種イベントという形で現実へと人を駆り立てている作品や、ハードな考証による戦前の世界の再現とシンプルなキャラクターデザインを組み合わせた片渕須直監督の『この世界の片隅に』など、そうした「リアルと嘘」のバランス、「リアルさ」は近年様々にクローズアップされている。
『スーパーカブ』という作品を通じて、身近に存在はするものの、接したことがなかったバイク趣味の世界に興味をもったという人もいるだろう。それだけの魅力を持った作品だからこそ、一度立ち止まって、そうしたフィクションを現実へと接続したくなるような感覚を成立させる源泉について考えてみるのは、どうだろうか。