グレーバーはアナキズムを「主義ではない、自分の生きる様式だ」と言い、カオスのなかで自分と相手を認め合う、支配者的な「知性」とはぜんぜん違うあり方を「穏当さ」と呼びましたが、まさに土的な中和のあり方だと思います。
エンパシーを使って悪行も含めた過去に学ぶ
ブレイディ ここで想起したのが、パンデミックによって「知性を根源的に恐れさせる」事態が起きたとき、イギリスで地べたから立ち上がったレベッカ・ソルニットが言うところの「災害ユートピア」的な光景です。政府の方針がコロコロ変わり先行きが見えないカオスのなかで、近所の人たちはおのおのがボランティアで、「ここに電話してください」と自宅の番号を書いた手作りのチラシを入れて、買い物にいけないお年寄りたちを自発的に助け始めた。
誰にも命じられないのに相互扶助が勝手に立ち上がったその機動力を見て、私はアナキズムの精神を心から信じられる気になりました。
藤原 エンパシーの発露において、ブレイディさんは同時に「他者の靴を履ける人は他者にも自分の靴を履かせる人でなければならない」とも指摘しています。他者の靴を履くだけでなく、「どうぞ自分のも履いてください」――。これは様々な微生物やバクテリアが互いを共有しながら好き勝手やって中和するような知性のあり方です。
カオスな状況下で「利他」と「利己」のあいだの壁はない
ブレイディ もっというと、「穏当に」エンパシーを使って歩んでいく土的な中和の世界においては、実は利他と利己のあいだの壁はないと思うんです。とくにコロナ禍のようなカオスな状況下では、利他的にふるまうことがパニックを防ぎ結果として利己的にもなる。宗教と市場経済の発展の歴史のなかで、「本当に神の道を歩みたいなら自分の財産を投げうって、利己的な精神とは決別せよ」みたいに利他と利己のあいだに明確な線引きがなされてしまったけれど、元来はまざりあっているもの。
聖職者が国家の悪行の片棒をかつぎもすれば、ものすごく資本主義的な仕事をしている人が貧困層のために大きな貢献をすることもある。なぜなら人間そのものがカオスで矛盾する要素を抱えているものだから、単純な二項対立に馴染まないんですね。
イギリスでは同じストリートでも人種、信条、宗教が多種多様で本当にカオスですが、みんなでワイワイガヤガヤ一緒にご飯食べたり、ぶつかったり仲良くなったりして、話し合ってそこそこうまくやっていく。アナキズムはそういうカオスを肯定する楽天的な思想でもあると思う。