エンパシーを使って悪行も含めた過去に学ぶ
藤原 もうひとつ、ある本を読んだり、研究したりすることもまた誰かの靴を履く行為かと思います。私はナチスの研究をしていますから、とてもじゃないけど全くシンパシーを抱けない人間たちを認知的な(コグニティブ)エンパシーを使って、なぜこの人々はこうせざるをえなかったのかを考察しています。
ブレイディさんはあとがきで、悪行をした人間もまたエンパシーを働かせる対象に含まれると指摘していましたが、これは社会が過去に学び未来を構想する学問的エントランスとも言えます。
ブレイディ 全くその通りで、「わたし自身を生きる」というアナーキーな軸をもったうえで、自分には理解しがたい、許せない行動をする人の靴も履いてみることは多種多様な人間が生きる社会でますます重要になってくると思うし、それと同時に「履くことなんかできないし、履かなくてもいい」と言う人も増えると思う。他者の靴を履くと物事を単純に言いきれなくなったりするし、それなら最初から線引きしておいたほうが整然として楽だから。
それでもグレーバーは、人間が「穏当さ」を身に着けるにはエンパシーが必要だし、「カオスを恐れるな」と言うんですね。カオスのなかを恐れずに自分の靴を履き、他者の靴を履き、とことん対話して互いに落とし所を見つけていく穏当さをもって生きるんだと。実はグレーバー的カオスと似たことを藤原さんが書かれているのを見つけちゃったんですよ。
土的な中和のあり方
藤原 えっ、どこだろう?
ブレイディ 『言葉をもみほぐす』という本のなかで、田舎の実家で牛を飼っていて、「その糞尿と敷き藁も含めてあらゆる有機物を捨てる場所」としての土について考察していますよね。「土は、化学的にいえば、化学変化の宝庫ですし、生物学的にいえば、飲んで、食べて、生殖して、子どもを育てる地下の巨大都市のようなもの」だと。私も福岡のど田舎で育って、学校で食べ残したコッペパン食べながら肥溜めを覗いてたから、これはすごくわかる感覚です(笑)。
何よりしびれたのが、「善悪の彼岸ですべてを砕く土壌世界が、知性を根源的に恐れさせ、そういう知性の足がガタガタと震えて、何も言えなくなるような瞬間を味わいたいのです」という一文で、これはカオスそのものです。
藤原 なぜ土壌世界において「知性の足がガタガタと震える」かというと、土は“穏当”だからなんですね。土の世界の本質は中和にあって、いろいろなものを飲み込んで食い荒らして、ミミズからバクテリアまでそれぞれが好き放題やって、分解し、中和する。