また評論家の浅羽通明は『ナショナリズム』(ちくま新書)で、『坂の上の雲』を題に司馬が描く「有能」とは、リアリズムとイノベーションだと指摘する。「言い換えれば、客観的合理的な思索力と慣例常識を打破する創造力とである」(同書)。この思索力と創造力もまた二郎が備えている美質である。
勝利が待っていた『坂の上の雲』に対し、二郎を待っていたのは…
このように二郎は「近代化」の担い手という点で『坂の上の雲』の登場人物たちととても親しい存在なのだ。だが一方で、二郎と『坂の上の雲』の登場人物には大きな違いがある。『坂の上の雲』の“楽天家”たちを待っていたのは、日露戦争での勝利という栄光であったが、二郎を待っていたのはまったく違う未来だった。
九試単座戦闘機の試験飛行の成功を描いた次のカットは空を覆うほどの巨大な黒煙から始まる。この黒煙は、B‐29の空襲により、燃え上がる街から立ち上っているものだ。敗戦を象徴するこの黒煙こそが、二郎を待っていた“雲”なのだ。
しかもこの黒煙は、実は映画序盤に出てくる関東大震災のシーンの黒煙と同じ素材が使われている(手前の人物や風景はまた別のものになっている)。関東大震災は大正デモクラシーが退潮する転換点。つまりこの映画は大正デモクラシーの終焉から太平洋戦争の終わりという「近代化の破産していく過程」を、2つの黒煙で縁取るように描いたのだ。その点で『風立ちぬ』は反転した『坂の上の雲』ということができる。
『風立ちぬ』の2つの“決まっている行く末”
しかも『風立ちぬ』は、その「近代化の破産」を無言のうちに前提に物語を進めている。それはいずれ起こることとして“決まっていること”として描かれている。
この決定論的な語りは、幼い二郎が夢の中で、カプローニの飛行機が街を焼く様子を「これから起こること」として幻視してしまうシーンから一貫している。軽井沢で会った外国人カストルプが「(軽井沢は)忘れるに、いいところです。チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する、ドイツも破裂する」と語るシーンも、あたかも“予言”のようだ。
またそこと軌を一にするように、二郎が愛した奈穂子が結核で死ぬのもまた「避けられない出来事」として描かれる。奈穂子はプロポーズを受ける段階から既に自分の命が短いことを自覚している。「人生には選択肢などなく(あっても大差なく)、人生はそこで精一杯生きることしかできない」という、決定論を前提としたある種の諦観が本作の根底にある。
どうして『風立ちぬ』はこれほどまでに決定論的なのか。それはこの映画がやはり「近代化」が主題だからなのである。