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 二郎というキャラクターに寄り添っているように見えながら、本作ははるかに遠いところからキャラクターたちが生きる様を見ている。そこから見ると、二郎もカプローニも同じような存在であり、彼らが人生をいかに選択しようが、国家が近代化する過程で帝国主義が台頭する以上、戦争は避けられない。個人が賛成しようが反対しようが、そのような歴史の必然たる枠組みは変わらない。

© 2013 Studio Ghibli・NDHDMTK

『風立ちぬ』と『もののけ姫』…2つのジブリ作品の“描かれなかったこと”

『風立ちぬ』公開時に、二郎が「戦闘機を作ることを通じて戦争協力していることを、どう考えているかが描かれていない」という指摘があった。その指摘は確かにその通りだが、それは本作が「日本の戦争」を描こうとしていないからだ。

「近代化(とその破産)」が大枠である以上、個人個人がどう思おうと「近代化の過程で戦争は起きる」という前提は変わらず、だからこそその大きな視点を際立てるために、人間の内面の葛藤や良心の呵責には関心を払わないのである。そしてそのような状況をニヒリズムでもなく、露悪趣味でもなく淡々と描き出したのが『風立ちぬ』なのである。

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 この「近代化」をどう扱うかという問題意識は、『もののけ姫』にまで遡ることができる。

『もののけ姫』にエボシ御前というキャラクターがいる。彼女は製鉄を行うタタラ場のリーダーで、製鉄のために山を切り開くため、山の神々と敵対関係にある。そして映画のクライマックスで彼女はついに神殺しを行う。

 宮崎駿監督は彼女について「近代人である」「だから魂の救済を求めていない」といった内容の説明をしている(『「もののけ姫」はこうして生まれた。』浦谷年良、徳間書店)。つまり『もののけ姫』とは、近代人が神殺しを行い、そこから“近代化”が始まったのだ、という物語なのである。そして“近代化”によって生まれた様々な矛盾や問題を抱えつつ主人公のアシタカは生きざるを得ない。

『もののけ姫』よりエボシ御前 ©1997 Studio Ghibli・ND

 この矛盾や問題を象徴するのが、森とタタラ場の関係だ。タタラ場の人々は生きていくために森を伐採せざるを得ない。だからタタラ場と森は根本的に相容れることはない。タタラ場は工業化により女性や障害を持った人間にも生きる場所があるという理想的な社会ではある。しかしそれは自然環境を蕩尽することで支えられているのである。

 ヒロインであるサンの「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことは出来ない」という台詞とそれに対するアシタカの「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って」という答えは、その矛盾や問題を引き受けて、なお生きようという意思の表明だ。そしてそれは、その矛盾によって傷ついたとしても「共に生きることなど無意味だ」というニヒリズムに陥ることはないという気持ちが込められている。

 ここで映画が終ってサンとアシタカのその後の日常が描かれないのは、アシタカの抱えたこの矛盾はそのまま現代人の問題だからである。