なぜ『風立ちぬ』は“美しい映画” なのか
『風立ちぬ』において飛行機が「美しくも呪われた夢」と矛盾を孕んで表現されるのも、『もののけ姫』が象徴的に描いた「近代化」とその問題の果てにあるものだからだ。工業化を背景にした近代国家の成立、そしてその結果としての戦争。人はこの大きな枠組みの外に出ることはできない。
そして『風立ちぬ』は、その枠組の中で右往左往する人間を描いた作品なので、視点が非常に大きいところにある。視点があまりに大きいから、二郎の葛藤や良心の呵責を描いても、そこには大して意味がない、ということになるのだ。逆にいうと二郎の心理に寄れば寄るほど「日本の戦争」を描いた作品になり、「近代化(とその破産)」という大きな枠組みは見えなくなってしまう。
その点で『風立ちぬ』は、二郎を「当時の時代の中で生きた人として描いた」というより、「敗戦という結果が出た現在から導き出される大きな視点の下に描いた」といったほうがふさわしい。ただし愛情を持って。そしてそのマクロとミクロのバランスが絶妙なので『風立ちぬ』はとても美しい映画として完成したのである。
“美しさ”の裏側にある“危うさ”
けれども――である。
私たちは日々の生活の中で、「近代化(とその破産)」を前提とした決定論を生きていくわけにはいかない。現実の未来は不確定で、それをよりよきものにするには考えたり、時になにかに抗う必要もでてくる。
映画監督の伊丹万作は『戦争責任者の問題』の中でアジア・太平洋戦争にまつわる責任について次のように記した。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
映画としては美しくとも、映画の中で切り取られた二郎の生き方を「時代の中で精一杯生きた」とだけシンプルにまとめてしまうのはとても危うい。「精一杯生きたからしょうがない」と「時代に流された」の間にはどのような境界線があるのか。
『風立ちぬ』では「近代化」という枠組みと、二郎の“芸術家”としての「業」を強調したことで、その境界線が見えなくなっている。現実の「未来」は、「近代化」の枠の中にあったとしても、さまざまに変えられる部分を秘めた可塑的なものだ。
作中で二郎はポール・ヴァレリーの詩を口にする。
「Le vent se lève, il faut tenter de vivre 風が立つ。生きようと試みなければならない」
現実の中で「生きようと試みる」ということは映画の中の二郎の振る舞いとは遠く、自分の中にある「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」といったものに抗っていくことだと思う。映画が公開された2013年よりも現在のほうが、その意味は重くなっている。