いまから50年前のきょう、1967(昭和42)年11月9日、作曲家の武満徹(当時37歳)による琵琶、尺八とオーケストラのための作品「ノヴェンバー・ステップス」が、米ニューヨークで初演された。これはニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の創立125周年の記念作品として、武満に委嘱されたもの。初演は、小澤征爾が指揮するニューヨーク・フィルと、鶴田錦史の琵琶、横山勝也の尺八により、同楽団の本拠地であるフィルハーモニック・ホール(現デイヴィッド・ゲフィン・ホール)で催された。
オーケストラと日本の伝統楽器の共演というと、いかにも東西文化の融合というイメージを抱かせる。しかし武満の意図はむしろ逆であった。彼は同作の解説のなかで「オーケストラに対して、日本の伝統楽器をいかにも自然にブレンドするというようなことが、作曲家のメチエ(引用者注:表現に要する職業的技巧)であってはならない。むしろ、琵琶と尺八がさししめす異質の音の領土を、オーケストラに対置することで際立たせるべきなのである」と書いている(『武満徹全集 第1巻 管弦楽曲』小学館)。
演奏者にとっても、互いに勝負するとの思いは強かったようだ。横山勝也によれば、尺八では息の半分ぐらいしか音にならないのに対し、オーケストラの木管楽器は息を100%音にして細く長く続けられる。それを彼は本番で胸が張り裂けるほどに息を吸って、木管楽器より1秒ほど長く音を残し、「勝ったと思った」という。まだ戦後20年あまりで、多くの日本人が戦勝国アメリカに対して特別な思いを抱いていたころだ。横山は「この初演が成功したら、私は死んでもいいと思っていた」とも語っている(『武満徹を語る15の証言』小学館)。
リハーサルの段階では、武満たちに対しオーケストラの楽員から反発もあったようだ。しかし小澤征爾は、琵琶と尺八だけが演奏するパートを楽員たちに集中して聴かせることで、反発を解消する(小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』音楽之友社)。結果、初演は大成功に終わり、カーテンコールが何度も続いた。その夜、武満はウエストサイドを一人で歩きながら、琵琶と尺八を採り入れたことは間違いではなかったと確信したという。「ノヴェンバー・ステップス」はその後、各国で演奏され(日本初演は翌68年6月)、武満の名は世界に知られるようになる。