ご相談の文章を拝読しましたが、大変長文で、丁寧に書いてくださっていましたね。ただし、ご相談の核心は、最後の一文にようやく出てくる、ご自身の「心の安定」であろうと拝察しました。ここを押さえてから、今一度、ご相談の文章を最初から読み直すと、なぜ「心の安定」を求めるのか、その理由と経緯が事細かに記されているのです。
箇条書きに整理して書かれている点、また使われている語彙や漢字は、あなたの知的水準や教育程度の高さを明らかに示しています。しかし、この点は諸刃の刃でもあり、却って、受け手にその文章に対するとっつきにくさ、もっといえば読みにくさを感じさせてしまうことがあるのです。
硬質で分かりにくい言葉で延々と予防線が張られた、どこまでも続く言い訳にも読める文章を辿って、本当は何が言いたいのかを、かなり頑張って追わなければならない、という印象になってしまうのです。
読む人が知りたいことがすぐに伝わる──おそらく上司の方は、それを「論理性」と言っているのではないでしょうか。
わかりにくいものを提示すると、嫌われてしまいやすい
上司の方は、複数の部下の仕事を見なければなりませんし、また部下以外にご本人の上司にあたる方の文書や、取引先の文書も読まなければならないことでしょう。
そうした状態で、永遠に続きそうな予防線の最後に一文だけ、察してほしいといった調子でわかりにくく真意が記載されていたとしたら。これは、上司の方はかなり疲れてしまうのではないでしょうか。
それでなくとも私たちは、何かを決めたり一生懸命考えたりする時、脳に負担がかかるようにできています。これを「認知負荷」といいます。何かを伝えようとする時には、相手の認知負荷を軽くすることで、好感を持ってもらうことができます。
ということは、逆に言えば、相手にとって認知負荷が高く、わかりにくいものを提示すると、嫌われてしまいやすいということです。
日本には、話す技術はさておき、書き文字に関しては非常に洗練された高度な技術が磨かれてきた伝統があります。短歌、俳句、川柳はいうに及ばず、ツイッターが流行るのもこの土壌があるがゆえでしょう。