しかし、杜撰な移民計画に加え、抗日パルチザンとの武装衝突、妻子を思っての屯懇病と呼ばれた重篤なホームシックの多発などで、成人移民が内在的な問題を抱えていたことから、満洲移民の基礎を築く一方、張作霖爆殺事件の立案・実行者の1人でもある満洲国軍事顧問でもあった東宮鉄男は「貧困者ニシテ活路ヲ満州ニ」求めざるを得ず、かつ、「純真ノ年少者」による開拓団への政策転換の必要性を身も蓋もなく説いた(上笙一郎『満蒙開拓青少年義勇軍』中公新書、1973年)。
「のらくろ」読者の少年たちに向けて
1938年当時16歳というと、「のらくろ」の連載開始時である31年の時点で9歳、「タンクタンクロー」の連載開始の34年時点で12歳、つまり義勇兵は「のらくろ」「タンクロー」読者と重なりあってくる。それが両者が「動員」された理由とまずは考えられる。この2人の人気まんが家は自分たちの読者を「外地」に動員するための戦争協力を求められたのだ。
そのような田河水泡の起用がまさに「国策」であったことは、清水久直『満蒙開拓青少年義勇軍概要』(明治図書、1941年)の以下の記述からまず確認できる。
一〇、義勇軍の漫画宣伝・小学児童のために
小学児童の義勇軍に対する関心は最近著るしく昂まり、義勇軍の現地生活状況を知らんとする努力が払はれるに至つたので、拓務省では小学児童の最も理解し易い文、絵で現地報告書を作製すべく漫画家の田河水泡先生(本名高見澤水車)に交渉中のところ、この程承諾を得たので、本月五日から一ケ月に亘つて現地に行つて戴くことになりました。田河先生は先づ昌園訓練所に行き、それからハルピン訓練所を始め各地の大小訓練所を訪問され、冬の義勇軍と訓練所の正月風景を得意の文と漫画に収め一月十日頃帰京される予定。
田河の本名は「仲太郎」であり、「水車」というのは誤記であろう。同書は、義勇軍に志願した青少年が2ヶ月から4ヶ月の訓練を内地で受ける茨城県下の内原訓練所の記録として書かれたものだが、田河への協力要請が「小学児童」向け、つまり「のらくろ」の読者向けになされたことがわかる。
田河水泡と義勇軍政策との関わり
そもそも田河は、満洲と縁がなかったわけではない。大正新興美術運動に参画する以前、小学校卒業後、職を転々とした後、1919年に徴兵、21年満洲吉林省に配属後、22年、除隊している。
義勇軍政策に関わっての渡満はこれよりずっと後、まんが家として名を成した後で、満蒙開拓青少年義勇軍の生活指導員として各地の訓練所を回ったとされる。自叙伝では1938年6月から41年まで拓務省嘱託として3回、渡満していると回想される(田河水泡、高見澤潤子『のらくろ一代記―田河水泡自叙伝』講談社、1991年)。
先の「概要」には、皇紀2600年に合わせて1940年後半から「報告書」作成のため渡満したとあるのは、3回目の渡満のことであろう。