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まんがの創作教育で義勇軍を慰問

 2つめの田河の義勇軍政策への協力が、外地訓練所におけるまんがの創作教育である。そのことは田河の自伝にも記載されている。

 昭和13(1938)年から16(1941)年にかけて、田河は3回、満州の各地の開拓地をまわって義勇軍を慰問した。1回1ヶ月くらい留守であった。

 満蒙開拓青少年義勇軍というのは、日本全国の貧しい農家の次男三男を募集し、満州の開拓地におくりこみ訓練する、当時の国策事業であった。15、6歳の少年が中心で、約100人が1個中隊になって1か所に集まり、アンペラ(アンペラという植物でつくったむしろ)屋根に泥壁の家を自分たちで建てて、周囲の原野を開拓するのである。辛い仕事であった。電気もなくランプで生活し、寒いときは農業どころか何もすることはないし、娯楽などまったくなく、なぜこんなことをしなければならないのかと、田河もしみじみと考えるほどみじめな状態であった。(田河・高見澤、前掲書)

元義勇兵の心に刻まれた田河先生の思い出

 田河の指導を受けた証言はいくつか残っていて、例えば戦後、三井三池鉱業所で働きながら組合の機関紙などにまんがを投稿した甘木太郎が訓練所時代、田河から指導を受けたとしている。大牟田市立図書館HP「郷土ゆかりの漫画家甘木太郎」の「経歴・プロフィール」には「義勇隊の嘱託、『のらくろ』の漫画で有名な田河水泡氏に版画の指導を受ける」とある。

 満蒙開拓青少年義勇軍嫩江大訓練所第17中隊に所属した大金次男は、まんが形式でその指導の様子を回想している(図17)。

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図17 大金次男「田河水泡きたる」(『続地平線の彼方』八洲会、1998年)

 言及したまんがの作者は少年たちがまんが家に野心を示すというのは、一種の「笑い」であるが、前章で示したまんが通信教育の広告コピーが「支那に満洲に国内に漫画家は大多忙なり 出でよ! 新進漫画家!」であることを考えるとリアルでもある。

 その大金の描き残した田河の授業はコンパスや定規を駆使したというものだった。授業の様子は田河の妻、高見澤潤子によっても回想される。

 田河は、拓務省から各地の訓練所にコンパスや彫刻刀をたくさんおくってもらい、コンパスを使って、円の中に三角、四角、五角などをいれる用器画を少年たちに教えた。みなは夢中で幾何学模様を描いて泥壁に貼りつけたり、むしろの上に貼ったりして喜んだ。(田河・高見澤、前掲書)

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