ただし、千里ニュータウンが1962年にまちびらきをした時点では御堂筋線の延伸は果たせておらず、まず先行して阪急千里線が延伸、加えて路線バスによってニュータウンの交通をになっていた。
そうして開発が進む最中の1965年に千里丘陵は万博の開催場所に決まる。御堂筋線の延伸は、1970年の万博開催に合わせて進められることになったのだ。
そして万博がはじまった
かくして1970年、千里ニュータウンの中心として千里中央駅が開業する。北大阪急行は万博へのアクセスを最初の役割にしていたから、千里中央駅は仮の駅舎。大阪中央環状線に沿って万博会場(いまの万博記念公園)まで線路を延ばしていた。
万博期間中、北大阪急行は実に4148万1175人もの来場客輸送をしたという。とりわけ閉幕間際の9月5日には、終電出発後にも駅周辺や会場内に約15万人のお客が残ってしまうほどの有様だったとか。とにかく北大阪急行は、開業するやいなや万博によって大いに面目を施したのである。
万博閉幕後、千里中央駅は現在の場所に移って本格的に終着駅となり、現在のせんちゅうパルや阪急百貨店なども開業。遅れて1972年には千里セルシーも誕生し、名実ともに千里ニュータウンの中核になっていく。
すでに1964年に開業していた東海道新幹線の新大阪駅と15分という利便性もまた、千里中央にとって大きな強みだったのだろう。計画の15万人には及ばなかったが、1975年にはニュータウンの住民が約13万人に達する。その中心の千里中央、いくつ商業施設があっても、余ることはない。
50年の歴史を刻んだニュータウンとその変化
千里ニュータウンに入居したひとたちは、ほとんどがいわゆる核家族であった。ニュータウンというと近所づきあいに乏しい無機質な町というイメージを抱く人もいるかもしれないが、時代は昭和。団地の中で同じ階段を共有する人たち同士で旅行に行くほど親密な関係性を築いていたという。
最初はフロなし住宅も多かったが、1970年代以降増改築が行われてフロもできた。全戸水洗トイレも特徴のひとつで、家の近くには日常利用に便利なスーパーもあって、千里中央に行けばレジャータウン。緑地も多く、住環境としては実に恵まれていた。