しかし、いまの千里セルシーはすっかり廃墟状態になった。閉鎖されたのだから当たり前なのだが、せんちゅうパルのデッキから見下ろすひとけのないステージはなかなかに切ない。1200もあったテナントは末期には60店舗にまで少なくなり、老朽化に伴って閉鎖されたのだとか。
せんちゅうパル、阪急百貨店、千里セルシー…なんでこんなに商業施設が?
千里中央には他にもせんちゅうパルに阪急百貨店といった商業施設があり、加えて千里セルシー。どれも上品な佇まいではあるが、いくらか古びた雰囲気もあわせ持つ。
いったいなぜ、これほどいくつもの商業施設がこの駅の周りに集まったのだろうか。それは、千里中央とそれを中心とする千里ニュータウンの歴史と深く関わっている。
古い航空写真や地図を見れば一目瞭然、1960年代はじめごろの千里中央駅付近はほとんど何もない丘陵地であった。雑木林がほとんどで、筍や果樹が特産だったという。開発がはじまるまでは、大阪府モデル果樹筍産地に指定されているくらいだったから、なかなかのものだ。
だが、1958年に千里ニュータウンの開発が決定する。戦争直後の混乱期を抜けて、朝鮮戦争の特需景気がはじまると大阪の人口が爆増。大阪市は1950年代の10年間で100万人近く人口が増えている。
とうぜん住宅不足が社会問題化し、戦前までは田園地帯だった周辺都市が続々と都市化してゆく。しかし、10年で100万人も増えた人口を吸収するのにはとうてい間に合わない。そこで雑木林に覆われていた千里丘陵を大規模なニュータウンに改造することが決まったのだ。
ちなみに、千里中央駅から中央環状線を跨いで南東側に向かって歩くと、ニュータウンらしい町並みとはまったく違った一角がある。細くてカーブを繰り返しながら入り組んだ町。そこは上新田地区といい、ニュータウン開発以前からの集落だった。
なんでも、江戸時代のはじめに人が暮らすようになったのだとか。最初は上新田地区も開発の対象だったが、反対運動もあってそのまま残された。開発前の千里丘陵の面影を感じられる一角といっていい。
話を元に戻すと、開発当初の計画では千里ニュータウンは1150ヘクタールの敷地に15万人が暮らす町。もちろん交通機関の整備も重要なテーマで、そのひとつが地下鉄御堂筋線の延伸であった。