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警官隊の連携プレイ

 解雇通告から3日後、29日の夕方、首を切られた約50名が、若松市内の料亭「水林」に集まった。今後の策を話し合うためだ。そこで酒が入ったかどうかは分からないが、その後、20名ばかりで会津支社へ押しかけようという話になった。

 ちょうど守衛の警備が手薄な時間でもある。口々に絶叫しながら、建物に乱入していった。

「今すぐ、支社長を呼べ!」

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「解雇の理由を説明しろ!」

 居合わせた社員は顔面蒼白となり、呆然と見守るだけである。その瞬間、ドアを蹴破るように現れたのが、またもや電源防衛隊だった。

 猛獣が咆哮するような声を上げ、たちまち乱闘が始まった。組合員たちは殴り倒され、叩き伏せられ、敷地の外へ追い出された。

 そこへ、タイミングを見計らったように到着したのが、警官隊である。引き渡された者はトラックに乗せられ、署へと連行されていった。

「結局、自分は、会津若松に一年ちょっといたね。それで、全部終わってから東京に引き揚げましたよ」

©iStock.com

「右翼の黒幕」の誕生

 こうして、会津若松を舞台にした電源防衛は幕を閉じた。

 猪苗代第一発電所では赤旗もインターナショナルの合唱も消え、かつての静寂が戻ってきた。日橋川の最上流にあり、赤煉瓦の外壁が美しい建物は、今では日本遺産に認定された。約70年前、ここで血みどろの戦いがあったなどとは信じられない静けさである。

 そして、電源防衛は、「右翼の黒幕」という田中のイメージを確立させた。

 戦後の混沌とした時代、経営者の誰もが共産党の脅威に凍りついた時、単身で立ち向かったのが、田中だった。その後も、いくつもの大企業の争議で、組合潰しやスト破りの黒幕として名前が隠見していく。財界にとって、彼は救世主であり、恩人でもあった。

 当然ながら、対立する共産党からは、激しく憎悪された。

「資本家の走狗」「体制側の黒幕」、ありとあらゆる雑言が浴びせられる。新憲法が認めた労働運動を、力で圧し潰したのだから無理もない。が、その彼らも認めざるを得ない、一つの明確な事実があった。

 それは、電源防衛で田中が見せつけた、共産党潰しの技量である。