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でっち上げられたスキャンダル

 組合の人脈や指揮系統を調べ上げ、誰が、どのぐらいの影響を持っているかを摑む。また、彼らの過激さを執拗に宣伝し、一般の労働者から孤立させる。さらに、内部の対抗勢力を支援し、組合の主導権を奪ってしまう。

 共産党の強みと弱点、駆け引きを熟知した見事な戦術だった。

 必要とあれば荒くれ男を動員し、自らも殴りかかるなど、その行動力は、大企業の青白い役員たちには望むべくもない。

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 今も太田は、会津での、あるエピソードを忘れられないという。猪苗代の電源防衛の際、最大の障害が皮肉にも、雇い主の日発にいたのだ。

「猪苗代の支社長の中山さんは、技術屋だけど、マルクスを読んでて、共産党の話が分かる。だから、連中と互角に話しちゃうんです。平和な時なら、それでいいよ。だけど、あの時は戦争なんだ。それじゃ、首切りとか、徹底的なことができない」

 ここで言う中山とは、日本発送電の猪苗代支社長だった中山俊夫を指す。早稲田大学の電気工学科を出て、日発に入り、後に東京電力の沼津支店長や電源開発の資材部長も務めた。根っからのエンジニアで、電産の組合員とも正面から向かい合う、温厚な性格だったらしい。

 だが、この非常時に、彼が現場の責任者だと共産党に勝てないと、太田らは判断した。

 とは言え、一下請けの三幸建設に、雇い主を追い出す権限などない。そこへ田中が、ある「友人」を送り込んできたという。

「あの時やって来たのが、元共産党員、筋金入りの活動家だ。それが、一人で会津の山に籠ってね、ずっとビラを書いてるんだ。架空の団体のね。中山さんが、どこそこの芸者と遊んでた、共産党員と会ったとか。それをばら撒いてから、本店に乗り込む。『支社長を替えろ』って。それで、中山さんは首になった。そりゃあ、凄かったよ、共産党の昔の奴は」

 現代風に言えば、フェイク・ニュースだろうか。

弾圧を生き抜いた者の凄み

 自分たちに目障りな人物や組織のスキャンダルを流し、社会的に葬ってしまう。今ならビラでなく、ソーシャルメディアだが、すでに半世紀以上も前、それを自在に駆使していた。戦後、流行りで共産党に入った連中とは違う、戦前の弾圧を生き抜いた者の凄みである。

 それは同時に、田中の生涯を通じた大いなる矛盾、ドラマ性を、見事に照らし出してもいた。そして、彼のいかがわしいイメージを増幅もした。その理由を最もよく理解していたのは、当の本人だったはずだ。

 かつて過激なストライキを扇動し、警官を殺傷し、暴力革命を画策したのは、他ならぬ彼なのだ。それは左翼運動にのめり込んだ青春時代の、決して消えない傷でもあった。田中清玄は共産党員、それも最高責任者の委員長だった。

田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児

徳本 栄一郎

文藝春秋

2022年8月26日 発売