それでも彼らは、進駐軍施設で演奏するのをやめなかった。もちろん、当時の日本人には考えられないような高待遇だったことも大きな理由のひとつだろう。また、好きな音楽を目一杯やれるというのも大きかったはずだ。
加えて、当時のバンドマンは日本では「楽隊屋」などと呼ばれ、「河原乞食」扱いされていた。けれど、一歩足を、進駐軍クラブに踏み入れると、ミュージシャンとして最大限、尊重され、喝采を浴びるのだ。音楽と娯楽を愛する者にとって、そこは楽園だったのだ。
ジャズは“おいしい”仕事
「これからはジャズの時代。アメリカの兵隊さんが持ってきたラジオから流れてくるのは何だか知ってるか。ジャズばっかりや。日本でもはやるぞ(※3)」
1944年に早稲田大学法律学科に入学した渡邊晋は、在学中に終戦を迎えた。敗戦の影響は渡邊家に深刻な影を落とした。父・泰は日本銀行に勤めたエリート。戦中は北支の銀行に出向していたが、戦争協力者として公職追放の憂き目に遭ってしまう。家長が失業したことにより一家はたちまち困窮した。晋の元に生活費はおろか学費が届かなくなってしまった。なんとかして、自分の学費や生活費を稼がなくてはならない。
そこで晋が目をつけたのが「ジャズ」だった。
下宿先でトロンボーンを吹いていた2年先輩の塩崎達成の「ジャズがはやる」という言葉に「音楽でメシが食える時代になるということですか」と晋は目を光らせた。晋が音楽を始めたのは、最初から金のため、ビジネスのためだったのだ。
そのため、晋は需要と供給のバランスも冷静に判断できた。ある程度弾けるようになったギターに早々に見切りをつけ、すぐにベースに転向したのだ。現在、「ベース」といえばギターとほぼ同じサイズのものを想起する人がほとんどだろうが、当時のジャズバンドの「ベース」はコントラバスのこと。地味な上に、大きくて持ち運びが不便なため、担当するプレイヤーは多くはなかった。だったら楽器素人の自分でも付け入る隙はあるかもしれない。晋は徹底的にビジネスライクに考えて、ベーシストになったのだ。
もっとも良い報酬を得られたのはやはり進駐軍関係の仕事だった。東京・横浜だけでも83か所ものキャンプが存在しており、そのキャンプ回りは晋のようなアマチュアバンドマンにとっても“おいしい”仕事だった。
キャンプには軍人の階級によってOC(将校クラブ)、NCO(下士官クラブ)、EM(兵員クラブ)といった飲食と芸能ショーを提供するクラブが多数存在していたため、バンドの需要が膨れ上がっていた。従って、前述したような“戦前派”のジャズメンや、軍楽隊出身のバンドマンだけではとても供給が追いつかない。だから、演奏技術に目をつぶってでも、アマチュアバンドが仕事にありつけたのだ。
戦後のはしりのときは軍楽隊上がりね。それに影響されて、渡邊晋さんたちが第2ジェネレーションになるのかな。第2世代になると、慶應大学とか学習院という割合いいところの人たちが、バンドをやりはじめたんです。楽器が高くて手に入りにくい時代だからね、あまり豊かじゃない家庭の子には買えないわけ。(堀威夫)