1945年8月30日、遂に連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、バターン号で厚木海軍飛行場に降り立った。コーンパイプをふかしながら、開襟シャツという軽装。そのラフな出で立ちとは裏腹に、マッカーサーとGHQは日本に対して絶大な権力を持っていた。約7年の占領期間中、日本政府に出した指令や覚え書は実に約2500件に及ぶ。1日1件の計算だ。
進駐軍慰安を支えた「戦前のジャズメン」
そのひとつに、1945年10月2日に発令した「調達要求の物資や役務の範囲」についての覚え書がある。「サービスの部」第10項には「特殊慰安(音楽・演劇・相撲など)」として芸能提供が掲上された。こうした要請に従う形で「RAA(特殊慰安施設協会)」に「食堂部」「キャバレー部」「慰安部」「遊戯部」「特殊施設部」「物産部」などと担当内容が拡充されていった。
中でも重視され、需要が大きかったのが「芸能部」の一端を担う「音楽」だった。米軍の各施設ではバンドマンたちの演奏を欲した。日本人立入禁止の米軍向け歓楽街も次々生まれ、そこでもやはりバンドマンたちが求められた。そうした芸能人たちの出演料はすべて日本政府が賄った。
だが、敗戦してすぐの頃。長きにわたる戦時中、娯楽を禁じられて日本人の中で楽器を演奏できるものは少なかった。そこで渡辺弘(1912年生まれ。日本を代表するサックス奏者)を始めとする戦前からのジャズメン、いわゆる「戦前派」とともに大きな役割を果たすことになるのが軍楽隊出身者たちだ。
陸軍や海軍に所属し、戦意高揚などの目的で、行進曲、オペラの序曲などを演奏していた彼らは毎日のように楽器に触れ、その技術を高めていっていた。戦後、彼らの多くは「とても音楽なんてやれる状況ではなくなる」と不安を抱えながらも、民間での吹奏楽指導者や、NHK交響楽団や東京放送管弦楽団、東京都音楽団などクラシックの分野に職を求めていた。原も当初は、クラシック奏者を志向していたが、野沢の言葉に心を動かされた。
原はそれまでジャズなど聴いたこともなかった。だが、横浜のキャバレーなど進駐軍向けにジャズを演奏するようになり、やがて「シャープス&フラッツ」を結成し、日本のジャズを牽引していく。原のような軍楽隊出身のバンドマンが進駐軍慰安を支えたのだ。
つい数か月前までは、“鬼畜米英”への戦意高揚を煽る演奏をしていた彼らにとって、それは屈辱的なことだったのかもしれない。昨日まで「敵国」だったアメリカ兵たちを喜ばせているのだ。
キャンプでの演奏経験のある三木鶏郎(1914年生まれ。伝説的なラジオ番組『日曜娯楽版』の構成・演出・作詞・作曲・出演で人気を博した「冗談音楽」やコマーシャルソングの第一人者)は米軍のパーティーの様子を見て「豪華絢爛たるアメリカ社会の一端を目の当たりに見て、敗戦下の実感と屈辱をひしひしと感じた」と綴っている(※2)。