『犬物語』(ジャック・ロンドン 著 柴田元幸 訳)

 ジャック・ロンドンは、男なら誰もが憧れるような野生的な冒険の末に物語を書き始めた作家である。若い頃は浮浪児として国中の汽車をただ乗りして無銭旅行をつづけ、その後は船乗りとなって世界の海をまたにかけた。カナダのクロンダイクで金鉱が発見されると、先頭に立って北へ向かい厳寒の極地で冬を越えている。こうした経験が彼の作品の決定的な部分を形成していることは言うまでもない。

 ジャック・ロンドンが描く自然の姿はリアリティーに満ちている。彼の文章から感じられる北極の寒さは、私に言わせれば本物だ。解釈を排し、行動のみを示した簡潔な文体で自然の本質を引きずり出して見せる作家としての手腕は、読んでいて思わず唸ってしまいそうなほどだ。

 タイトルからわかる通り、本書は犬が主人公となった作品を集めたものだ。ロンドンの作品のなかで犬は常に人間と自然の中間で引き裂かれた存在として描かれる。本書の中でそれを端的にしめしているのが「ブラウン・ウルフ」という作品だ。犬は愛情豊かな夫婦のもとでの恵まれた生活を選ぶか、あるいは元の飼い主であるクロンダイクの男の元に戻るか選択を迫られる。この構図の中で夫婦は平和で安逸な都市生活、クロンダイクの男は過酷な北極の大地を象徴している。最終的に犬はクロンダイクの男のもとに戻ることを選ぶが、そのことは、犬の本来的生は究極的には野生の中にあるというロンドンの自然観を示している。

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 ロンドンにとって犬は単なる犬ではなかった。北極の旅や生活において、犬は番犬として、あるいは橇を引く労働犬として人間にとって不可欠な存在であり、人間は犬をパートナーとすることで極地で生き延びることができたのである。クロンダイクの男は犬に過酷な仕打ちを課すが、それでも犬は男を選ぶ。それは男の仕打ちが野生の掟に従ったものであることを犬が知っているからであり、自然という生と死の絶対規律のもとでは人間の自己本位的欺瞞など通用しないことをロンドン自身が知っているからでもある。クロンダイクの冬の生活で人間と犬の本来的関わりを見たロンドンにとって、犬が文学的主題として大きく浮上するのは必然の成り行きだったのだろう。彼は犬を描くことで人間と自然の相克を描こうとしたのである。

 同じ柴田元幸訳でスイッチ・パブリッシングから発売された『火を熾す』も、焚き火の失敗を通じて自然のなかに静かに潜む死の恐るべきリアリズムを描き切っており、まことに傑作のひと言に尽きたが、今回の『犬物語』もいずれ劣らぬ作品集だ。本書は彼の代表作である「野生の呼び声」が柴田訳で読めるだけでも、ロンドンファン、柴田ファンの双方にとって堪らない一冊となっている。