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シンプルの極みのような「佐賀」の構造に残された“歴史の痕跡”

 こうした佐賀駅の変遷は、駅の周りを歩いていればなんとなく感じ取ることができる。

 まず駅西通り・市役所南通りがかつての駅と線路の形をくっきり残しているかのように湾曲している。その道を西に行くと佐賀平野を南北に走る国道264号とぶつかる。

 国道を渡った先は市立図書館などのある公園なのだが、ここはかつて大和紡績の工場だった場所だ。1916年に佐賀紡績の工場として設立され、1986年に閉鎖されるまでこの地にあり続けた。国道264号は紡績通りと呼ばれ、実に活気に溢れていたのだという。こうした工場が立地するのも、線路がすぐ脇を通っていたからだ。

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 同じように駅の東側にも理研や戸上電機製作所の工場が建ち並ぶ一角がある。古い時代の線路は、理研と戸上電機製作所の工場のちょうど間を抜けていたのだろう。さらに工場群を抜けて東に出ると、国鉄佐賀線の廃線跡が待っている。

 佐賀市街における廃線跡はほとんどが道路になっていて面影はないが、長崎本線から分かれる高架橋の跡はいまも往時のそのままに。高架の線路が東西に延びているだけという、シンプルの極みのような佐賀駅も、探してみれば刻んできた歴史の痕跡は大いに残っているのだ。

「日本ではじめての国産蒸気機関車模型」が製造された町

 ともあれ、佐賀の町は佐賀駅と佐賀城を一直線に結ぶ中央大通りを中心軸として発展していった。線路の脇に工場が設けられれば、そこで働く人も増えて駅周辺の開発も拍車がかかったことだろう。そして平野のど真ん中の町という性質上、周囲の田畑を潰せばいくらでも市街地は拡大できる。

 事実、歓楽街もある愛敬町一帯は江戸時代までは水田地帯で、駅の開業以降に市街化が進んだエリアだ。お城という中心はいまもそこに残り、駅というもうひとつの核を得て、面的に拡大してきたのが佐賀の町。地形の影響をあまり受けないから、碁盤の目の人工的な街路になっているのも特徴だ。シンプルの極みでありながら、こうした町の発展が歩くだけでも感じられるのが、佐賀というわけだ。

 

 ちなみに、佐賀市街地の西側には精煉方跡がある。精煉方とは幕末に佐賀藩が設けたいわゆる科学技術の研究施設。長崎で蒸気機関車の模型を見てきた佐賀藩士たちは、ここで日本で初めての国産蒸気機関車模型の製造に成功したという。さすが薩長土肥の一角。佐賀は地味ですね、などといって済ますのは、まったく無知の極みなのである。ごめんなさい。

 

写真=鼠入昌史

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。