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 いまの佐賀の町が本格的に城下町として整備されたのは、江戸時代に入ってからのことだ。もともと佐賀一帯、旧肥前国は、戦国時代まで龍造寺氏が治めていた。

 その頃から佐賀平野のど真ん中に居城を構えていたようだが、近世城下町のはじまりは関ケ原の戦い以後。龍造寺氏の家臣だった鍋島氏が家中の実権を奪い、そのまま徳川政権下では佐賀藩主となり、佐賀城本丸を普請、城下町を整備した。それが現在の佐賀の市街地に続いている、というわけだ。

 よくよく考えると、平野のど真ん中という佐賀城の位置は、戦の守りにはあまり適していないように思える。北には背振山地が横たわり、南には遠浅でムツゴロウが飛び跳ねる有明海。干拓によって田畑を広げてきた佐賀平野の真ん中の佐賀城下は、遠くからも素通しで見えてしまうではないか。

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 このあたりの事情はよくわからない。が、ちょうど佐賀市街地の中央を東西に長崎街道(小倉と長崎を結ぶ街道)が横切っている。街道筋と有明海・佐賀平野の物流の核を担っていた水運の結節点として、ちょうどよい場所にあったということなのだろう。

駅ができたのは約130年前。当時は今と違って…

 お城を中心とした佐賀の中心市街地は、駅から見ればやや南に離れたところに位置している。駅が開業したのは1891年。当時の九州鉄道が、長崎方面に線路を延ばすその途上に設けられた駅だ。

 

 実は、そのときの駅の場所はいまよりも少々南にあった。ちょうど中央大通りと駅西通りが交わる駅前交番西交差点付近が駅前広場にあたる。そこから南にあった佐賀城下の市街地に向けてまっすぐ伸びたのが現在の中央大通りのルーツというわけだ。市街地の北の外れから少しでも市街地に近い場所に駅を設けようという、そうした思惑があったのかもしれない。

 さらに、1935年には佐賀線というローカル線が乗り入れる。筑後川の東側、福岡県の大川・柳川方面から伸びてきた路線だ。そして戦後の1976年、佐賀駅は高架になって北に移転、いまの位置で再開業を果たす。市街地が拡大していくなかで、駅の南北の交通を阻害しない高架へのリニューアルが求められた結果だろう。このときもまだ佐賀線は現役だったが、国鉄がJRに移り変わるその直前、1987年3月に廃止されている。