地元住民が明かした“町の歴史”
「今の水門は新しいけど、もともとは300年以上前からあった。家もずっと昔からあるよ」
これには正直、驚いた。
古老は、この一帯は干拓地であること、水門は干拓の大きな役割を果たしていること、水門によって出来た土地だから“水門町”という地名になったこと、川の上にある邸宅は水門を管理していた地主さんの家であったことなどを教えてくれた。
川の中に浮かぶ集落を見てからずっと疑問に思っていたことを、古老が全て解説してくれた。何気なく声をかけて、こんなにも面白い話が聞けるとは思いもしなかった。これだから、この趣味はやめられない。
「岐阜から来た甲斐がありました!」と感謝の気持ちを伝えると、「あそこに石碑もあるよ」と言い残し、軽トラで去っていった。
古老が指差した方向へ歩くと、公民館の傍らに“幸島新田開拓三百年記念碑”と彫られた石碑を発見した。石碑の裏には、このように書かれていた。
幸島新田開拓三百年を迎えるにあたり開墾の祖池田光政侯および津田永忠公の偉業をたたえ祖先の苦労をしのび郷土悠久の繁栄と平和を祈念しここに刻む
日付は昭和59年10月吉日となっている。石碑の建立から40年ほど経過しているため、開墾、つまり2基の水門とその間に小島が誕生したのは、今からおよそ340年前ということになる。
現地で得られた手がかりを元に、帰宅してから調べたところ、川の真ん中に民家が浮かぶ不思議な光景の起源は江戸時代に遡る。新田開発に注力していた岡山藩は、千町川両岸の干拓に着手する。岡山藩主の池田光政が、郡代の津田永忠に干拓を命じた。石碑に刻まれていたのは、この二人の名前だった。
干拓によって生じた幸島新田の南端、千町川の河口近くに2基の水門が設けられた。海水が流れ込むのを防ぐ防潮のための水門だった。
当時は“築渡水門”という名称で、現在と同じように東西2基により構成された。水門の間に当時から民家があったかは定かではないが、相当昔からこのような風景があったことがうかがえる。当時の水門は失われ、真新しい水門に造り替えられてしまったが、今も340年前と同じように2基の水門によって干拓地が守られているというのは、なんだか嬉しい。
スマホで何気なく眺めていた航空写真が気になり現地を訪れた結果、思いがけず江戸時代にまで遡る歴史に触れることができた。津田永忠は幸島新田のほかにも、岡山藩の多くの干拓事業にも携わっていた。倉安川に設けられた閘門施設である吉井水門など、当時の姿のまま現存するものもある。
干拓地と水門を巡るため、また岡山に行きたくなってしまった。現地に行き、帰ってから調べ、また現地に行く。いつもこれを繰り返している気がする。全てを調べてから現地を訪れたほうが効率は良いが、楽しいかどうかは別問題だ。
何度でも岡山に行きたくなるが、その前に、行きたい場所として地図アプリに登録してある未訪問の場所が100ヶ所以上ある。これ以上、行きたい場所が増えないことを祈りつつ、今日もまた地図アプリを眺めている。
写真=鹿取茂雄
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