生徒の鼻水を拭いてやる
小川 先生の本を読んでいて、「ああ」と思った文章がいくつかあったんです。まだ先生になられたばかりの、たぶん戦時中の話だと思うんですけど、朗読しますね。
「昼休み、校舎の脇の日だまりに長椅子を出して、子どもたちを座らせるの。順番に爪を切って、髪をとかして、鼻水を拭いてやるのが日課でした」と。それで、「一人一人に全力で愛情を注ぎましたよ。手を握り、頭をなでてやるうちに向こうも安心して体を寄せてくるの。いとおしかったです」。
僕が小学校に入った頃は、高度経済成長期で、さすがに先生に鼻水を拭いていただいたりするようなことはなかったんですが、手を握ってもらったり、頭をなでていただいたり……ということは確かにあったと思います。すごく愛情を込めて僕たちに接してくださいました。そのことが忘れられません。
石井 ああ、嬉しいです。
小川 僕も教育の仕事に携わるようになって、どこまで石井先生のようなことができているかはわからないんですけど、僕が思っている理想の先生のイメージは常にこのときの石井先生なんです。一歩でも二歩でも石井先生に近づきたいという気持ちで、学生たちを温かく見守ってやりたいなと思っていまして。
石井 そんなふうに思ってくれていましたか。ありがたいですね。
小川 僕らの時代にも、貧しい家庭の子がいたと思うんです。先生は、覚えておられますか? 親も同行する遠足があって、そのとき僕のおふくろが弁当を二つ作ってきて、一つを先生にあげたんです。僕は子どもながら、なんかズルをしているような気持ちになってしまったんですが、それを先生が「ありがとうございます」と受け取って。
それで、その日、親が来ていなくて、弁当も持ってきてない子がいたんですが、先生がその子に、うちのおふくろが作った弁当を「これ食べなさい」と渡したんです。
当時は僕も子どもですから、逆に「先生、何するんじゃ」と思ったんですが、今から考えると、うちのおふくろも優しい人でしたから、ひょっとしたら先生がそういう子らに弁当をあげるところまで考えていたのかもしれません。すでにおふくろは亡くなりましたので、はっきりしたことはわからないんですけどね。
石井 そうですか……。
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「歌う哲代おばあちゃん103歳!」全文は、月刊「文藝春秋」2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
歌う哲代おばあちゃん103歳!