一度これと決めたらとことんのめり込む性格なのだろう。すでに小学校低学年のころからその片鱗はあったようだ。
学芸会で猿蟹合戦の劇をやったとき、杉本は柿の実をぶつけられる役を演じたが、その本番前、彼女は柿をぶつける役となった親友に「遠慮しないで、思い切りぶつけて!」と言ったという。本人はそのことを忘れていたが、それから20年ぐらいあとに親友と再会したときにこの話をされ、「いまの杉本彩があるのはよくわかる」と言われたとか。
『スケバン刑事』出演を断った“意外な理由”
17歳のときにはスカウトされて東京の事務所に所属する。とはいえ、いわゆる“芸能人”になるつもりはなく、しばらくは新幹線で東京に通いながらモデルの仕事を続けた。それでも1987年に19歳で東レのキャンペーンガールに抜擢され、これが実質的な芸能界デビューとなる。
事務所側はモデル以外にも仕事の幅を広げたがったが、彼女はあくまで仕事を選んだ。人気ドラマ『スケバン刑事』にもゲストとして出演オファーが来るも、セーラー服を着るのがいやで断ったという。トーク番組のレギュラーも務めたが、まったく馴染めず、番組を見た知り合いから「嫌そうなのが顔に出てる」と言われるほどだった。
彼女には、当時主流だった“清楚でかわいらしい”アイドル像に反発心があった。ここから、セクシーで奔放なセルフイメージをつくりあげていくことになる。おかげで若い男性を中心に人気を集め、学園祭シーズンともなると歌手として多くのステージに立った。いつしか「学園祭の女王」と呼ばれ、周囲の期待がプレッシャーとしてのしかかるようになる。自らつくったセクシーで奔放なイメージも、忠実に演じれば演じるほど、どんどん実像の自分から離れていくのがわかり、葛藤を覚えた。
不本意な仕事が多いなか、もっとも楽しかったのが音楽活動だった。自身のバックバンドのメンバーと交流するうち、ギタリストだった男性に導かれるように作詞や作曲も手がけるようになり、クリエイティブな仕事に目覚めていく。しかし、音楽にのめり込むほど時代や流行りを無視する方向に行ってしまい、事務所との溝はますます深まった。ついには独立すると決意し、24歳だった1992年、すでに同棲していた男性と結婚すると同時に、夫婦で個人事務所を設立した。
SMシーンの撮影で、原作者にぶつけた怒り
とはいえ、何の後ろ盾もない個人事務所では不利な面もあった。映画の企画もたびたび持ち込まれたが、主役が個人事務所の彼女では、大手事務所から俳優を出してもらえず、なかなか実現にはいたらなかった。映画はもういいやと思っていたところへ舞い込んだのが、SM小説の第一人者である団鬼六の代表作『花と蛇』の映画化の話であった。