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「パンズ・ラビリンス」と同じモチーフで挑んだ“リベンジマッチ”

「見どころの多い、一見の価値ある映画やと思うけど、映画としてのバランスはどうかなあ。半魚人とヒロイン・イライザの関係がメーンになるはずが、悪役・ストリックランドのキャラが立ちすぎていて、ロマンチックな気分になってしかるべきシーンでも『ああ。いつ、あいつがこの幸せを壊しにくるんやろうか』ということばっかり気になってしまい、心ゆくまで楽しまれへんねんからなあ」

©2017 Twentieth Century Fox

「それは単に、小石さんが小心者だからじゃないんですか?」

「いやいや、君も映画を観れば分かるよ。やっぱりこの世で一番怖いのは、怪獣よりもクリーチャーよりも、ただの人間やで。それで興味深いのはな、デル・トロ監督のファンタジー映画『パンズ・ラビリンス』(2007年)にも、こいつとそっくりの悪役が登場するんや」

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「ああ、あのおっかない大尉ですね。確かにあの映画でも、一番印象に残る人物でしたよ」

「この映画は内戦直後の1944年のスペインが舞台やねんけど、大尉はフランコ独裁政権の手先で、マッチョで強権的で拷問が大好きで、絶望的な抵抗を続ける反政府ゲリラたちをじわじわと追い詰める。使用人の中年女性をなめきっていたために手痛いしっぺ返しをくらうという点まで、ストリックランドとまるっきり一緒や。映画全体の構図も、『主人公と反政府ゲリラが属する理想とファンタジーの世界』を、『過酷な現実を象徴する大尉』が圧殺しようとする点で、『半魚人とヒロインの側 vs. ストリックランドと軍』という『シェイプ・オブ・ウォーター』と同一と言ってええやろう」

「『シェイプ・オブ・ウォーター』はデル・トロにとって、『パンズ・ラビリンス』のリメークということですか?」

「リメークというよりは、『同じモチーフを用いたリベンジマッチ』やないかな。ここでちょっとデル・トロ監督について語らせてもらうと、彼の本当のユニークさ、凄さはそのオタク的感性や博識にあるのではなく、『自分の内面のタマネギ構造=多層性を非常によく自覚していて、それぞれの階層を自由に行ったり来たりして作品作りに活かしていること』だ、とオレは思っているんや」

ギレルモ・デル・トロ監督 ©getty

「はあ? それってどういう意味ですか」

「デル・トロ監督の一番根っこにある『自己』は、本人が言っている通り『テレビの中の怪獣だけが友達』という孤独なオタク少年やろう。近々続編が公開される『パシフィック・リム』(2013年)は、デル・トロ少年がふけっていたであろう『おもちゃを使った怪獣ごっこの妄想・ファンタジー』を、ものすごいカネと技術を使って、思う存分スケールアップさせた映画やな」

「小石さんも大喜びしていましたからねえ。私は絶対に観ない映画だけど」

「これだけやったら、デル・トロは単に『子どもの心を失わないオタク監督』という位置づけや。だけど彼は『パンズ・ラビリンス』や『シェイプ・オブ・ウォーター』の顔も持っている。これらの作品は、『こっそりと妄想の世界にふけりつつも、いつ怖い怖いオヤジに見つかって怒鳴りつけられ、おもちゃや本やテレビを全部取り上げられて現実に無理やり引き戻されないかとビクビクしているデル・トロ』という、『パシフィック・リム』よりも、もう一段上の階層の自己を反映しているように見えるんや」

「妄想にふける自分を客観的に観察しつつ、現実からの脅威におびえるもう1人の自分、ということですか」

「そういうこと。デル・トロの実際の父親がそういうおっかない人だったかどうかは分からん。だけど、悪役のストリックランドや大尉が、ヒロインを食ってしまいかねないほどの生々しい存在感とリアリティーを醸し出しているのは、これらの恐ろしい連中が『父親的なるもの=過酷な現実』の象徴として、今もデル・トロの内面に存在し、ファンタジーの心地よい世界に浸ろうとするデル・トロを脅かし、苦しめ続けているからやないやろうか。こいつらにどう立ち向かい、ファンタジーの世界を守り抜くか、ということがデル・トロ自身の生きるテーマであり、創作意欲の源泉にもなっていると思うわけ」