特に香りと甘味に優れ、名産品として知られたのが、美濃(岐阜県南部)真桑村産の真桑瓜(まくわうり)で、これは信長自身も贈答に用いた。『御湯殿上日記』には、天正3年(1575)6月、信長が朝廷に「美濃の真桑と申す名所の瓜」を2籠進上したと記されている。
他に果物類では、天正8年(1580)10月に本願寺より、蜜柑(みかん)が5籠、信長へ献上されている。柑子(かんし)、橘(たちばな)といった柑橘類は古来からあったが、蜜柑が贈答品の記録に現れるようになるのは室町時代以降である。戦国時代においては、畿内の寺社などで栽培されたほか、関東や駿河(静岡県東部)でも贈答に用いられていた記録がある。
当時の本願寺は、10年にわたる抗戦の末に織田方に屈し、大坂の本山を明け渡して間もない頃であったから、この貴重な甘味を贈って、少しでも信長の心証を良くしようとしたのだろうか。
魚介類の贈答品は多岐にわたる。鮒(ふな)や鮭といった淡水魚、鯛、鯖(さば)、海老、鮑(あわび)、くらげ、なまこ、昆布などの海産物など、例を挙げればきりがない。
あるとき、尾張(愛知県西部)知多半島、常滑の領主・水野直盛が、鯨(くじら)を1折、信長に献上したことがあった。伊勢(三重県)、尾張などではこの当時すでに、鯨漁の方法が確立していたらしく、この地域の産物として公家や幕臣の日記にも登場する。
水野から贈られた鯨肉を、信長は朝廷に進上し、一部は裾分(すそわ)けと称して、家臣の細川藤孝(幽斎)にも贈っている。当時はこのように、受け取った贈答品をさらに他者へ贈ったり、家臣らに分配することもあった。
伊豆の豪族・江川氏は、家伝として造酒を営み、その酒は「江川酒」と呼ばれて珍重された。伊豆を領した小田原北条氏は、この江川酒を贈答品としてたびたび用い、上杉謙信や織田信長など有力大名に贈った。
一説に、信長自身はあまり酒を嗜(たしな)まなかったとも言われるが、織田家の権威が東国まで影響を与え、江川酒のような名産品がわざわざ贈られてきたことは、彼の誇りを十分に満足させただろう。恐らく、この酒も先ほどの鯨などと同じく、家臣らに分け与えたのではないか。
ちなみに、江川氏は北条氏滅亡後も存続し、豊臣秀吉や徳川家康も江川酒を味わったと伝えられる。
海を越えた交易品
戦国時代は、中国の織物、朝鮮の茶器、虎や豹(ひょう)などの毛皮、西洋の衣類、時計、ガラス製品など、海外からの物品が盛んに流入する時代でもあった。
前述『日本史』によれば、フロイスらが信長に拝謁する際、献上品として「ヨーロッパ製の大きな鏡」「孔雀の尾」「黒いビロードの帽子」「ベンガル産の籐杖」を携えていったが、信長はそれらの品を見たあと、四つのうち三つは宣教師たちに返し、ビロードの帽子だけを受け取ったという。
――彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており、他の人たちに対する場合でもつねにそうであった
と同書は記す。信長の性格や美意識のほどが、うかがえるような逸話である。