裏門には「塀の崩落注意」という大きな看板が掲げられ、立ち入り禁止を示すポールが塀沿いに並べられていた。「塀を修理するだけで2000万円前後はかかる。そんなお金はとてもとても……」と山岸さん。
山岸さんの祖母は松平容保の孫・和子で3代目当主、慶光に嫁いだが、婚礼の写真は袿袴(けいこ)。
昭和前期には小石川の邸宅で暮らしたが、戦後は膨大な財産税が課せられ、屋敷などは国に没収され、静岡市を経て、町田市の一軒家、マンションなどで暮らし、生活は質素だった。「祖母にお屋敷で育ったのにマンション暮らしになって『昔はよかったな……と思うことないの』と尋ねたら、『だってしょうがないじゃない。時代というものなのだから』と淡々と話していました」と振り返る。
「日本の歴史として残していきたい」
もはや慶喜家の墓所や史料を管理するにも子孫個人の力では難しい。「個人の家のものではなく、歴史や文化財として管理してもらった方がいい」と山岸さん。
だが、歴史的墓所であっても、「墓は個人の所有なので、継承者が管理するのが原則」(東京都公園課霊園担当)という。さらに慶喜家の墓所は谷中霊園内にあるが、土地の所有者は徳川家歴代将軍の墓がある寛永寺となっている。
慶喜は大政奉還後、徳川宗家(将軍家)の家督を幼い家達(いえさと)に譲り、隠居した。
明治維新後に明治天皇から公爵の爵位を与えられ、宗家から独立し、徳川慶喜家を創設することが許され、仏教から神道に改宗し、谷中霊園に神式の墓地がつくられた。
山岸さんは「寛永寺、都、徳川家ゆかりの団体などに相談しながら墓じまいを進めている」と話す。
山岸さんは墓だけでなく、叔父から慶喜家に代々、伝わる慶喜直筆の書など5000点にも上る史料の責任も負っている。
行政に史料の保存や公開方法などを相談し、「これからは家族の歴史ではなく、日本の歴史として残していきたい」と語る。