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 寅子はこの歌を怒りながら歌う。その怒りは、自分だけではなく、志半ばで去らねばならなかった女たちがこうむった理不尽に対する怒りであり、いまだ解消されない女性の構造的排除に対する怒りだ。それにしてもこのコミカルな歌は、怒りを表現するにはいかにもふさわしくないように思えるかもしれない。

 シリーズもまだ先の長い現在、これは推測でしかないが、この歌はジェンダー秩序がひっくり返ったユートピアを歌っているようにも見えつつ、実のところ先述の「温情的な父権主義」の歌でもあるのではないだろうか。

 最初の結婚式の場面に表現されるように、この歌は男性たちに大いにウケている。披露宴で酔っ払って歌い踊るのは男性たちだけであり、女性たちは「スン」っとしている。コミカルな歌の中では「女性が強い」ことを歌いつつ、現実には男性優位の社会は保存する──この構図は、ドラマ、映画、アニメのようなフィクションの中では女性が活躍しつつ、現実には男性の優位が確保されるという構図に似ていないか。

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 または、「多様性の時代なのでこんなことを言うと怒られますが」といった言葉を枕にしたお偉いさん(もちろんおじさん)のスピーチに似ていないか。

寅子の「はて?」は男性社会だけでなく、それを追認する女たちへも向けられている

 ロシアの批評家ミハイル・バフチンは「カーニバル的なもの」という概念を提唱した。ある種の文学の中で、カーニバル(祝祭)的に日常的な価値観が転倒されることである。このカーニバル的なものは、日常の価値観を転倒させつつ、じつは(祭りの時だけ転倒させることで)日常の権力関係を保存していると見ることもできる。「モン・パパ」にはそのような、カーニバル的なものの二面性がある。

 寅子が「モン・パパ」の歌唱に込めた怒りは、このカーニバル的なものの二面性の両方に向けられている。「強い妻」を自虐的に容認する温情的な父権主義と、それを追認する「スン」っとした女たちの両者に対する「はて?」が表現されている。

 

 本稿を書いている時点での最新第30話でのスピーチでは、寅子は「日本で一番優秀なご婦人」でないと門をくぐれない法曹界と日本社会──「一番なら入れてやる」という温情主義──に対して怒るのだ。

「モン・パパ」の歌唱には、そのような平等への願望と温情主義の拒絶がないまぜになっている。(以上のような二面性については、木俣冬のこちらの記事も参照。)

 そうすると、今後注目される男性登場人物は、裁判官の桂場等一郎ということになる。第1話の戦後の場面で寅子と対峙していた桂場は、表面上は性の平等ではなく法の純粋に適正な運用を原則として行動するように見える。

 物語が「法」そのものが踏みにじられる戦争という暗い時代に向かう中、彼はどのような男性性を帯びていくのか。彼は一体、寅子との関係において温情的父権主義の人となるのか、そうではなく、真に平等な社会を目指して寅子と共闘する人間になるのか、注目したい。