経済学と精神医学の類似点

 宏一の気づきは、経済学と精神医学の類似点へと向かう。

 専門家が見れば、症状の深刻度合いはわかるが、病名や治療薬は必ずしも確実ではない。複雑な要因がからみあって生じた症状に対して、試行錯誤を重ね危機に陥らぬよう手当てしていく、そういった点で似かよっているのだ。

 病気をきっかけとして宏一は、数理経済学・理論経済学から政策へと視座を変え、日銀の金融政策緩和を提言したことがひとつのきっかけとなって、内閣官房参与となって経済政策を先導することになる。アベノミクスの功罪、回復の過程で気づかされた学問世界の隘路については、本書後半に詳しい。

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内田舞×浜田宏一『うつを生きる 精神科医と患者の対話』(文春新書)

大きな災厄のなかでのレジリエンス

 読み通すと、光が見えてくる本だ。

 宏一の業績は高く評価される。政策論議から怒りを買ったアメリカ政府高官からさえも「学問的成果を尊重する」の一言があり、それが認知療法的に有効だったという。アメリカまで駆けつけてくれた同僚もいる。他人の絶え間ない評価や手助け、そして新しい仕事が、回復の一助となっていくのだ。

  宏一には、苦しい時期の彼の口述を手記としてまとめた現在の妻が、また今も各地で、地に足の着いた生活をする家族がいて、交流がある。世に知られた人が立て続けに大きな災厄に見舞われた時に、レジリエンス(弾性)ある身内の存在はどれほどの支えとなっただろうか。そのレジリエンスもまた、宏一を介して培われたものに違いない。

 舞は「ラジカル・アクセプタンス」という言葉を最後に引用している。仏教の思想を基とする心理用語で、「起きたことは起きたこと」と、事実をアクセプト(受容)して前に進むことを意味する。

「また自分がどこかで役に立てるだろうと未来を信じること」

「いまどう最善の道を選ぶのか」

 宏一は文字に記すことで、長い闘いの果ての精神の有り様を後世に伝えている。

 その模索は深く長く、心に響く。

郡司珠子(ぐんじたまこ) 株式会社KADOKAWA勤務。辞書、雑誌、文芸書、翻訳書、ノンフィクションを編集。手がけた近刊に、『流浪地球』『老神介護』劉慈欣 大森望・古市雅子訳、『心に、光を 不確実な時代を生き抜く』ミシェル・オバマ 山田文訳、『「自傷的自己愛」の精神分析』斎藤環、『健康の分かれ道 死ねない時代に老いる』久坂部羊、『老いてお茶を習う』群ようこ など。