精神科医としての注意深い聞き取り、学者らしい入念な語り

 1985年、当時の日本経済には破竹の勢いがあった。

 アメリカでその日本経済を教えるのだという気負いが、宏一のうつを悪化させた。母語でない言語で学問を教え、高い水準で存在を承認してもらうことに伴う苦しみは、想像を絶するものだった。「頭が破裂しそう」になり、「間違った道を選んだ」という思いが暴走し、希死念慮に囚われ入院を余儀なくされた。

「自分はこの場にふさわしくない」「ダメな人間だ」と思い込んだ過程を、舞は精神科医として注意深く聞き取り、宏一は学者らしい入念さで自分の心に迫っている。

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夏目漱石の時代からの変わらぬ葛藤

「自分の問題として能動的に取り組みなさい」というアメリカ医療のスタンスに驚きながらも、「大うつ病」から「双極性Ⅱ型障害」と診断名が変わり、自分に合う薬と出会った宏一は、症状がなくなる経験をする。

 医療者としての舞は、宏一の症状のなかに「インポスター症候群」を見る。自分の力で達成したことを自分で評価できなかったり、他人が思う能力に自分が値しないと過小評価したりする症状である。さらに舞は、投薬や通院を「負け」「ずるい」と考える傾向がいまだに根強いことを指摘、「内的評価」を育てることの重要性を説く。

内田舞氏(ハーバード大学医学部准教授、小児精神科医)

  学問の高みは、生半可な努力では通用しない世界だ。スポーツでいえばオリンピック代表。日々の鍛錬の果てに、ようやく場に立つことが許される。その世界を極めながらも、異国にあってマイノリティとならざるを得ぬ、息苦しさ。夏目漱石の時代から変わらぬ葛藤が、そこにある。

  一度入り込んだ恐怖、襲いかかる妄念をふり払うのは、容易なことではない。

 退院後も治療は続き、宏一は一部の講義を担当できなくなった。そのころ息子・広太郎は3000マイル離れた西海岸で、ガラス作家となっていた。いつしか父と同じように希死念慮に取りつかれるようになり、酷く苦しんでいた息子に、宏一は様々な理由から会いに行くことができなかった。死の一報を受けた日の、身を切るような痛みを、宏一は鮮明に覚えている。

「息子を亡くした苦しみ、そして自分にはうつ体験がありながらそれを防げなかったという後悔から解放されることは一生ない」

  家族を亡くした人と気持ちを共有させてほしいという思いから、宏一は辛い経験を詳細に語る。それに対し舞は、精神疾患には遺伝要因が大きくかかわるとしつつも、遺伝子の発現には疾患リスクだけでなく、その人をその人たらしめている様々な美点も含むのだと語る。やんちゃだった広太郎の輝くような笑みは、変わらず周囲の記憶に刻まれている。