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青ヶ島が“無人島”と化した歴史

 青ヶ島の特徴である「ひんぎゃ」や「二重カルデラ」を語るうえで欠かせないのが、1785年に起こった「天明の大噴火」だ。この噴火により、当時の島民327人のうち130~140人が死亡したと推定されている。また、200人以上の島民が隣島の八丈島に避難し、約半世紀もの間、青ヶ島は無人島と化した。

「八丈島に避難できたのはいいけど、その頃の八丈島は飢饉の真っ只中。現地の人たちですら食事に困っている状況だったから、避難してきた青ヶ島の人たちはかなり肩身の狭い思いをしていた、と聞いています。だから、温かい気候でサツマイモなどの農作物が豊富に採れる青ヶ島に帰りたい、と願う人が多かったんじゃないかと」

 当時の島民たちは力をあわせて、何度も船で帰島を試みた。しかし、波風の強い断崖絶壁の島には、辿り着くことさえ困難だった。まれに到着できても、噴火の影響で荒れ果ててしまった青ヶ島の土地で生活するのは不可能だと思われた。

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断崖絶壁に囲まれた青ヶ島(撮影=原田誠さん/写真提供=佐々木加絵さん)

「還住」と呼ばれ、語り継がれる

 しかし、青ヶ島の名主・佐々木次郎太夫が中心となり、帰島事業を進めたときから、少しずつ希望が見え始める。そして1824年、全青ヶ島民の帰島が実現し、天明の大噴火から50年後の1835年には、青ヶ島の再興が宣言された。この一連の出来事は「還住」と呼ばれ、青ヶ島民の間で今も語り継がれている。

「青ヶ島の子どもたちは、学校や習い事で還住の歴史を学びます。例えば、青ヶ島の定番の習い事には、『還住太鼓』というものがあって、『青ヶ島郷土芸能保存会』に所属している島民が、お祭りのときに演奏したり、島の子どもたちに教えたりしてくれています。そこで、『還住太鼓の“還住”とはなにか』を学ぶ子どもたちも多い。

 私も子どもの頃、還住太鼓を習っていたんですよ。初めて還住について学んだのはその時だったかもしれません。『無人島になってから50年も経っているのに、一致団結して島を再建させるなんて、この島のご先祖様はすごいな……』と感動したのを覚えています。だって、10歳で避難した人は、還住のときには60歳になっているんですよ。それだけ、自分の生まれ育った島を愛している人たちが多いんだなと思うと、感慨深いものがありますよね。

還住を実現した青ヶ島の英雄、佐々木次郎太夫を称える像

 命がけで島を復興してくれたご先祖様たちがいるから、今の私たちが平和に暮らせているんです。だから、青ヶ島はよく『何もない』『不便』と言われるし、島外からの交通手段が限られていて、買い物をしたり、遊んだりする場所もないけど、私たちにとってはすごく些細なことだと思っています」

 佐々木次郎太夫らの尽力によって還住を果たしてから約200年。青ヶ島の島民が先人たちから受け継いでいるのは、歴史や土地だけではない。「ゼロから自分たちでつくる」「みんなで助け合う」といった「還住マインド」も、青ヶ島に住む人たちに脈々と受け継がれているのだ。