当時21歳の山口百恵が寄せたコメントは…
ほかの生徒役にも二人と同様の意見が多いなか、安恵美智子役の小林聡美が《相手の男性をホントに好きだったら産みます。それだけのかくごはあります》、山田麗子役の三原順子(現・じゅん子)が《ぜったいにおろしません。わたしも浅井雪乃さんのように産みます。/もちろん高校に進学などせず、家にずっととじこもりっぱなしになって、育てると思います》と答えているのが目を引く。
当時人気絶頂にあった歌手の山口百恵も、中学3年の妹とこの放送を見たという。誌面に寄せたコメントでは、《相手の男性がどう考えてるかによって、まるっきり解決方法はちがってしまうと思います。/ただ、ひとつの生命なのだから、たとえ偶然にできたとしても、かんたんにおろせばいいなんてことは、ぜったいにイヤですね。/勝手に命を消してしまってもいい、なんて権利は人間にはないと思うから》と語るとともに、《もっとオープンな形で性の問題を語りあったりする場所があってもいいんじゃないでしょうか》、《子どもをやしなう能力のない未成年が、子どもを作ってはいけないんだということをおとなはもっと教えるべきです》とも提言していた(同上)。
山口は当時21歳。この年(1980年)秋に結婚する三浦友和と交際宣言してまもない頃だけに、ドラマのなかで教師たちが愛を説く場面には色々と思うところもあったのだろう。そのしっかりとした考えに驚かされる。
ちなみに「十五歳の母」3部作の視聴率は、第4回は19.6%、第5回は17.9%、そして第6回は18.4%とけっして高くはなかった。のちに第1シリーズと呼ばれるこのときの『金八先生』の平均視聴率は24.4%とはいえ、それは後半、回を追うごとに視聴率が上がったからであり、始まった当初は20%になかなか達しなかった(古沢保『3年B組金八先生 卒業アルバム 桜中学20年の歩み』同文書院、2000年)。
金曜夜8時台のテコ入れを図るべく企画された
そもそも『金八先生』は、TBSが当時、他局との視聴率争いで苦戦していた金曜夜8時台(すなわち「金八」)のテコ入れを図るべく、プロデューサーの柳井満が厳命されて企画したものだった。そのころ、同時間帯では日本テレビの刑事ドラマ『太陽にほえろ!』が圧倒的な人気を集め、ほかにもテレビ朝日のプロレス中継など、安定した視聴率を持つ番組が並んでいた。
柳井はドラマの始まる5ヵ月ほど前、熱海に住む脚本家の小山内美江子のもとを訪ね、この枠での新たな作品を依頼する。彼と小山内はそれまでに昼の帯ドラマ(ポーラテレビ小説)の『おゆき』(1977年)など3つの作品を手がけ、実績があった。柳井の上司で、TBSの制作局次長だった岩崎嘉一(脚本家の橋田壽賀子の夫)はそこから、どうしてもこのコンビでなければいけないと主張したという。