「常識破り」が生まれる前夜
栗山に限れば、そんなことは問題ではない。そもそも可能性を計算するという生き方はしてこなかったし、4年前に監督という仕事に身を投じてからもゴールに向かってひたすら手を打ち続ける日々を送ってきた。可能性を疑っている時間などなかった。だが選手はそうはいかない。いくら不可能なことなどないと口にしても、冷酷な戦いの場に身を置いている者たちは肌感覚で相手との距離を知ってしまう。届くのか、届かないのか、奇跡の確率を悟ってしまう。ペナントレースの趨勢が決まると言われる9月に差しかかったところで首位の背中がはっきりと見えていなければ、否応なくチームの空気は諦めに支配されるだろう。かつてプレーヤーとしてもプロ野球を戦った栗山にはそのことがよく分かっていた。
球界では、ひと月で縮まるゲーム差はせいぜい3ゲームと言われている。残された時間はそう多くない。それまでに、勝てると信じられる場所までチームを連れて行くのが監督としての仕事であった。それさえできれば、逆に選手たちは指揮官の想像を超える速度で突っ走っていくことも、監督1年目でリーグを制覇した経験から分かっていた。
前年シーズンのファイターズは2位だった。17個の貯金を積み重ねたにもかかわらず、終わってみれば優勝したホークスに12ゲームも離されていた。鷹の尾翼すら見えなかった。栗山の脳裏にはその虚しさと悔しさが残っていた。もう、あんな思いはしたくない。敵地の監督室で思いを巡らせた末に栗山は一つの決断を下した。あるプランを明日のゲームで実行に移す。それはひと月ほど前から頭にあったものであり、間違いなく世の中では常識破りと言われる作戦であった。
まもなく監督室をノックする音がして、八頭身の若者が入ってきた。21歳の青年はその顔にあどけなさと底知れない成熟を同居させていた。栗山は秘めていたプランを彼に告げた。悠々と空を舞う鷹を引きずり下ろし、チームから「不可能」や「諦め」という文字を排除する。その計画の主人公が大谷翔平だった。(文中敬称略)
※本記事の全文(約10000字)は、「文藝春秋」2025年3月号と、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(鈴木忠平「No time for doubt 第1回」)。
全文では、7月3日の「伝説のゲーム」が始まった瞬間、鍵谷陽平・杉谷拳士というチームメイトたちの感慨、ベテランの新聞記者が衝撃を覚えた大谷の姿などが描かれています。

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