迫害の歴史ゆえ「想像の共同体」の一員になれない
近現代の国民国家の性質について、アメリカの政治学者であったベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体」であると説明した。私たちが、一面識もない赤の他人の選手たちに自分と共通する属性があると考え、国家という同一の共同体に属する同胞としての意識を抱くこともまた、想像がもたらした幻想に過ぎない。とはいえ、私は現代人の1人として、ナショナリズムが持つこの手の「お約束」自体は、その虚構性は理解した上でひとまず受け入れても構わないと思っている。
――だが、例えそうであっても私個人について言うならば、サッカー日本代表を応援したいとは思わない。
理由は簡単だ。私は過去の差別と迫害の歴史ゆえに、少なくともサッカー選手に代表される体育会系の人たちに対しては、自分と共通の属性を持つ同胞だという意識をどうしても持てないからだ(逆に体育会系の人たちも、私たち運動音痴少年を自分の同胞だと考えたことはないだろう。スポーツマンシップとは、文字通り「スポーツマン」という特定の人たちの間だけで共有される友愛の感情を指す言葉なのである)。
W杯で青いユニフォームを着てボールを蹴っている人たちは「彼ら」の種族とそのフォロワーたちの代表者かもしれない。だが、私のような人たちの代表者では決してない。なので、私はサッカー日本代表チームを決して応援する気にはなれない。
ナショナリズムは、互いにある共通の属性を持つと考える人びとをまとめ上げて、その心を力強い連帯感で満たす。6月19日に「日本代表」が勝ったことで、TVや新聞からツイッターにいたるまで、そんな人たちの話題はW杯で一色になった。彼らに対しては、ひとまず「よかったね」とは言っておきたい。
何でもええから、はよ終われ、W杯
しかしながら、どうか忘れないでいただきたい。この国の社会はさまざまなバックグラウンドを持つ多様な人たちにより構成されており、ある特定のテーマに基づく連帯感からこぼれ落ちる人間も、やはりれっきとした日本社会の一員であるという事実を、である。
W杯での日本代表の試合はあと何回あるのだろうか。具体的な日程は知らない(調べる気もない)が、どこぞの遠い国で開催中のスポーツ大会に参加する兄ちゃんたちに興味がないだけのことで、自分が祖国ニッポンの社会から排除されたような気持ちを味わう憂鬱な日々が当分は続くらしい。
彼らが勝っても負けても構わない。何でもええから、はよ終われ、W杯。私はひそかにそう祈っているのである。