〈夕方になっても家に帰らない子供が冷蔵庫のなかにいた〉
空き地に捨てられていた冷蔵庫。遊びの途中でなかに入り、扉が閉まって出られなくなってしまった子供がいた。そんな記事を、昔はしょっちゅう目にしていたのに、すっかり忘れて何十年も思い出すことがなかった。短歌のなかで不意に再会してハっとする。そうか、彼らもまた、昭和の子供だったのだ。
「ニューウェーブ」の歌人として人気を博し、エッセイストとしても活躍する著者の十七年ぶりの歌集とあって、発売前から話題になっていた。長い時間をかけて発表された三百二十八首が、現在、子供時代、思春期以前、パラサイトシングル時代をへて、ふたたび現在へと戻る流れで配置されている。歌が時代を刻み、それらを貫くのも時間の軸ということになるだろう。
はじまりは現在の歌。力の抜けた言葉は相変わらずかろやかだが、ところどころに不穏な声が響く。
〈電車のなかでもセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから〉
〈金ならもってるんだ金なら真夜中に裸で入るセブンイレブン〉
子供時代を回想する歌のパートになると、一転、世界はキラキラと輝きはじめる。
〈かけられる方もげらげら笑ってて回り続けるジャイアントスイング〉
〈楽しい一日だったね、と涙ぐむ人生はまだこれからなのに〉
青春時代を素通りして歌の「私」は中年になり、時代も昭和から平成へと移る。若かった両親も年老いた。そして母の死。ひとりになった父。
〈天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく〉
〈月光がお菓子を照らすおかあさんつめたいけれどまだやわらかい〉
〈クリスマスイヴの鮨屋に目を閉じてB‒29の真似をする父〉
サランラップに味の素。昭和の家庭を彩るものはどれもペラペラと人工的だ。炬燵も、その上の新聞も、置き去りにしてしまいたかったものが思い出のなかでただなつかしい。
過去のユートピアからディストピアめいた現在へ。精巧に配置された歌の構成は著者の自伝を思わせるが、子供の「私」が東京タワーの上から落とした蟻を大人になった「私」が受け止めるなど、読者に「虚構」を意識させるしかけも。明らかに自身のものではない経験も混じりこんでいる。ひとすじだった時間は逆流し、いろんな方向に流れ出す。戻ってきた現在も、たぶん、もといた現在ではない。