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長崎原爆をかろうじて免れた

―――ご出身はどちらなんですか?

 長崎市生まれで、育ったのはおもに大分です。原爆のときは2歳で、まだ長崎にいたんだけど、じつに幸運なことにね。坂本龍馬の亀山社中と縁がある光源寺、その山門にいたる切り通しの防空壕に避難して、ぼくは山門の下に寝かされていたそうなんですが、ピカッ、ドンのあと石段20段ぐらい下まで吹っ飛ばされたのに、傷一つなかったと。同じ場所でも直射された子どもたちは、みな死んでしまったそうだから、たぶんあの大きな山門が守ってくれたんですね。それから2年ほどして長崎の大火災で焼け出され、大分に嫁いでいた姉のところへ引っ越して、幼稚園から高校まではずっと大分。学生時代は山岳部で山ばっかり登っていて、東京に来たのは九州工大を出てからです。

作品はダンボールに詰められていたりもする
「デコボコしたものが好きなんだよねえ」

――いまのお仕事を志しての上京だったんですか?

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 いや、中学校の修学旅行で来た東京の夜景に度肝を抜かれてね。いつかまた絶対東京に来てやると、それだけは思っていた。上京から4、5年は「いすゞ自動車」の設計部にいたんですよ。デザインじゃなく車の電気工学の設計。いずれ電気自動車がメインになるという話だったんで就職したんだけど、いっこうに進む様子がないからおもしろくなくってね。残業はいっさいしないで、夜の銀座あたりをブラついていたんです。新橋をスタートに新宿まで歩いたりね。夜の街歩きばかりしていました。

――もしかして、夜の女性が見たかったんじゃないですか?

 見たかった(笑)。あのころはまた、綺麗な人が多くてねえ。いまはなんかジャリっぽいというか、いや、こっちが大人になったせいもあるんだけど。いすゞに勤めて2年ぐらいたったころ、雪谷大塚の独身寮で一緒だった先輩が、種村くん、新聞におもしろい記事があるよと見せてくれたのが、「漫画集団」の先生方が、質のよい漫画家を育てるための漫画学校をつくるという話で。

「こういう作品も描いてるんですよ」

――赤坂の東京デザインカレッジ漫画科ですよね。もともと漫画はお好きだったんですか?

 好きでしたね。漫画も、絵を描くのも好きでした。ただ、そのときは漫画家になろうとは思ってなかった。小島さんとか横山隆一さんとか近藤日出造さんとか加藤芳郎さんとか、きら星のごとき人たちが毎日講義にくるというから、街をブラついているよりきっとおもしろいだろうなと。で、実際に講義を受けてみると、漫画といえば4コマ、というようなイメージが変わっていきました。カートゥーンのようにひとコマでも表現できること、もっといえば、トミー・ウンゲラーやペイネなども漫画のひとつなんだというようなことを知っていくうちに、どんどんこちらの世界にのめりこんだわけ。

920は国夫のクニオ

――小島功さんのお弟子さんになられたのもそのころですか。小島さんといえば『アサヒ芸能』に50年以上連載した「仙人部落」、『ビックコミックオリジナル』に30年以上連載した「ヒゲとボイン」、そして「黄桜」のカッパのイラストでも有名です

 漫画学校で小島さんのお弟子と知り合って飲み仲間になって、小島さんのお宅におじゃましたり、「漫画集団」(戦前に源流をもつ漫画家団体。入会審査が厳しかった)の集まりにも出入りはしていました。定期的に通って仕事を手伝うようになったのは、ずっとあと、先生が70代の中盤になってから。年齢とともに目が弱くなって、顔のような大きいところはともかく、小さい部分を描くのが面倒くさいというわけです。だからぼくが行くと黄桜の酒瓶なんかに指定がしてあって、「おまえ、こことここ、描いてくれ」と。 

だんだん女性がハダカになっていく三部作

 あるいは先生が見落としている色ムラや抜けなどの細かいところを修正していくとか、そういう手伝いをしばらく。先生は2015年、米寿の直前に87歳で亡くなったんですが、よく長生きされたと思います。大酒飲みなんだけど、物を食わない人なんですよ。酒ばっかり。早くから肝硬変に近い状態でね、60ぐらいで死ぬといわれてたんだから。唯一食べるのがカツオ。カツオの刺身だけは食べました。戦中戦後の酒がない時代を経験している人たちには、酒以上のごちそうはなかったのかもしれないな。

 最後のほうにちょっとケンカになりましてね。出入りしない時期もありましたが、もうそろそろ許してあげようと訪ねて、師匠に向かって許してやるはないだろうと怒られましたけど(笑)。