文藝春秋が報じた事件・事故の肉声

創刊100周年記念企画

森 健 ジャーナリスト
ニュース 社会 メディア
北のテロリスト、少年A、バブル紳士、冤罪被害者……。その言葉には時代の空気が息づいている。

文藝春秋の視点

「文藝春秋」という名称は文芸と春秋でできている。春秋とは何か、文春の編集者に尋ねたことがある。すると春秋とは「五経」の「春秋」であり、政治や戦、事件などの年代記を意味しているという話があった。

「だから、文藝春秋はその組み合わせでできているんです」

「文藝春秋」の事件記事を総覧していて、そんな言葉を思い出した。

 事件ほど時代を映すものはない。その時代でなければ起きなかったであろう事件もあれば、ある種の事件にはその後の社会の空気感までつくりだしてしまうものもある。

 膨大な事件記事を読んでいくと、およそ5つの時代に区分できた。

1:1922~50年代、戦前から戦後の混乱期。
2:60~70年代、学生運動から新左翼全盛期。
3:80年代、航空機墜落など大型事故とバブル経済事件の萌芽。
4:90年代、経済事件と社会を根底から揺るがす凶悪事件。
5:2000年代~現在、事件を機に法制度の整備される動き、デジタル時代の新しい格差。

 今回は基本的に戦後の事件を取り上げたが、記事を読んでいくと、文藝春秋という媒体が長くもってきた視点も浮かび上がってきた。それがどんなものか結論を急ぐ前に、まずは古い時代に遡ってみたい。

1950年2月号 下山事件 捜査最終報告書
1967年6月号 樺美智子さんの死の瞬間 内藤國夫
1970年6月号 79時間ハイジャック俘虜記立川政弘 我々は“明日のジョー”である〔出発宣言・闘争宣言〕 田宮高麿
1985年10月号 独占手記 地獄からの生還 吉崎博子
1990年8月号 金賢姫 全告白 悪夢のすべて
1989年10月号 特集・幼女誘拐連続殺人事件 単独会見記 針のムシロに坐る父親 坂本丁次
1991年4月号 独占手記 イトマン問題と私 なぜ磯田一郎氏を恨むか 河村良彦
1998年4月号 許永中失跡 カギを握る男 魚住昭
1994年9月号 あの夜 私の家で起こったこと 河野義行
2000年7月号 私は見た「犯罪被害者」の地獄絵 岡村勲
2015年8月号 元少年A『絶歌』に書かなかった真実 井垣康弘
2005年5月号 牙を抜かれた経営者は去れ 堀江貴文
2010年10月号 私は泣かない、屈さない 村木厚子/江川紹子
2010年12月号 検察が隠蔽する「真犯人のDNA」 清水潔

1950年2月号 下山事件 捜査最終報告書

 戦後の混乱期には真相が解明されなかった事件が少なくないが、その最たるものが1949年7月5日に起きた下山事件だろう。

 この日の朝、国鉄総裁だった下山定則は送迎車を下りて日本橋・三越に寄ると、そのまま行方がわからなくなった。発見されたのは深夜。常磐線・綾瀬駅に近い線路上で、れき死体だった。

 捜査は混迷した。自殺説と他殺説という2つの筋が存在していたためだ。当時、下山は国鉄の公社移行にともなって9万人以上の職員の大量解雇を進める立場だった。それだけに様々な憶測がとびかった。

 そんな状況のなか、1950年2月号が大々的に掲載したのは「下山事件 捜査最終報告書」という捜査機関からの資料をまとめたものだった。全文150枚と新聞では出せない量。下山周辺の関係者や送迎車、三越、事故現場周辺の住民などの証言を中心に紹介しつつ、解剖や鑑識、監察医などの報告もある。

 やはり目を引くのは関係者が語る下山の肉声である。

「毎日あっちこっちからせめられるのでこまるよ、俺が整理された方がよい」
「俺は今度首切りをやるのだがこれが一番つらいよ、首を切られる者は可哀そうでならん、これは政府がやることで国家の為仕方がない」
「今度俺は殺されるかも知れんよ」
国鉄・下山定則総裁
国鉄・下山定則総裁

 政府・GHQ(連合国軍総司令部)と労組の板挟みになって悩む姿が浮かび上がる。

 現場で発見された轢死体には血液の量が少なかったうえ、轢断面は生活反応が確認されず、死後に轢断された可能性が高いことが解剖結果で出ていた。しかしこの報告書で現場に駆けつけた監察医は「常識的には轢死と考えるのが至当と思う」とし、全体のトーンとしては読んだものが自殺説に傾くような体裁だった。

 この報告書に納得しなかったのが松本清張だった。松本は1960年1月号から資料をもとに下山事件を分析、「日本の黒い霧」として下山事件の背景にGHQの対立(民政局と参謀二部)があったと記した。この「黒い霧」は大きな反響を巻き起こし、本もベストセラーとなった。

 だが、そこで終わりにはしなかった。その後も松本と編集部は下山事件への関心を持ち続けた。1973年8月号では、他殺の線を追った発掘資料を掲載するとともに、松本の解説を記した。秋谷七郎・東大教授の鑑定書に松本は着目した。

「この謎を解くには、下山氏を第869貨物列車が現場を通過する前に殺害し(「秋谷鑑定」の死亡時刻を真実と見て同夜7時半から11時半の間に)、これを現場の線路上に横たえ、死体を右の貨物列車の通過によって轢断させたと推定するほかはない」

 真実が解明されていないと見なせば、時間が経過しようと何度でも扱う。そんな本誌の姿勢はこの後、別の事件でも示されることになる。

1967年6月号 樺美智子さんの死の瞬間 内藤國夫

 60~70年代は学生運動とそこから派生した新左翼の活動が活発化した時代だ。その初期に起きたのが女子学生、樺美智子の死だった。

 1960年6月15日、岸信介首相はサンフランシスコ講和条約調印時に締結した日米安全保障条約を改定すべく、1月に調印した新条約を国会で強行採決しようとしていた。この動きに対し、共産党を脱党してできた共産主義者同盟(ブント)や全学連が反対運動を展開、国会周辺でデモをするようになっていた。樺はブントに参加する東大生だった。

樺美智子さん
樺美智子氏

 1967年6月号では、事件当時、東大法学部緑会委員で、樺が亡くなったとき、すぐ近くにいた内藤國夫(執筆時は毎日新聞記者)が手記を寄せている。

「6月15日小雨。私たちは1時半に東大を出発し、国会に向かった。総勢三百余人。(中略)樺美智子さんも、だれにともなく東大のデモ参加者が少なすぎると怒っていた」

 国会の正門には2万人の学生がいた。4時半頃、学生たちはスクラムを組んで、デモ行進を始めた。

「これから何が起こるか。しっかりしなくてはと、なぜか身のふるえる思いだった。樺さんは4列目にいた」

 国会の南門に押し込んで入ろうとすると、警官が現れ「こん棒でなぐりかかってきた」

「警官の警棒と靴とで、めった打ちにされ、蹴られていた。何人かの学生が血をふいて倒れた。(中略)何人かの学生が泥まみれになってのたうち、しばらくして動かなくなった。あとでわかったのだが、樺さんもその中の1人だったのだ」

 6月18日、東大で樺美智子合同慰霊祭が行われた。国会への抗議デモもあり、参加者は30万人以上になったという。樺の死は翌週の岸信介の退陣表明にも少なからぬ影響があったとされるが、内藤はデモから7年経ち、こう疑問を記している。

「われわれの側には何が残ったのだろうか。何を学んだのだろうか」

 この虚しさのにじむ問いかけは、記事が掲載されたころ、より過激になっていた学生運動へのメッセージとも受け取れる。しかし、その言葉は後輩には届かなかったようだ。

1970年6月号 79時間ハイジャック俘虜記 立川政弘

我々は“明日のジョー”である〔出発宣言・闘争宣言〕 田宮高麿

 1970年3月31日、羽田空港を出た日本航空351便よど号は離陸してまもなくハイジャックされた。実行したのは赤軍派の9人。目的は世界党建設と北朝鮮への亡命だった。1970年6月号は、その首謀者である田宮高麿の手記と、よど号の乗客の証言を大きく扱った。

「乗客の皆さん、われわれは共産同赤軍派です。これから皆さんを連れて、直ちに北朝鮮に向います。われわれは世界人民のために、帝国主義、資本主義と闘うために、生を期し死を賭してハイジャックを敢行しました」

 離陸まもなくそんな機内放送があったと、乗客だった立川政弘氏は記している。命の危機があったにもかかわらず、立川氏はユーモアのある目線で、機内の様子を叙述している。

「強そうな乗客を窓際に移して、通路側には年配者と女性だけにして、急に襲おうと思ってもダメなように配置する。思いつきにしては手順が水際立っていて、これは大分練習しているなと恐ろしくもあれば、冷静そうだから暴力は振るわないかもと逆に安心もしたりだ。(中略。食事が手配されると)赤軍派の連中も4人ぐらい手を貸して配っている。流石に嬉しさを包みかくせないのだろうが、こっちは憂うつだぞ」

 一方、主犯の田宮の手記は出発前夜に書かれたものと、韓国に駐機していた間に綴られたもの2編が掲載されているが、そこに目新しさはない。おもしろいのは「追伸」と書かれた末尾の一文だ。そこには乗客に対する謝意が記されていた。

「最後に、我々の、このハイ・ジャックが、不測の事態で、必要以上に永びいたのに、最後的にねばり勝ちしたのは、乗客の方々の強い支援と協力があったからである。我々は、このことについて、乗客の方々に深く感謝している。同時に、乗客の家族の方々は、非常に心配された事と思う。深く、おわびする」

 長時間ともに過ごすなか、田宮の中にも乗客に対して心動くものがあったことが窺える。

 こうした多面的な肉声を紹介するスタイルは、その後の本誌の事故や事件記事では定番となっていく。

1985年10月号 独占手記 地獄からの生還 吉崎博子

 80年代に入ると思想的な事件は影を潜める一方、航空機の事故や事件が社会を大きく揺るがした。1982年2月の羽田沖墜落事故や1985年8月の御巣鷹山墜落事故だ。

 520人が亡くなり、惨事を極めた御巣鷹山では、幸運にも4人の生存者がいた。1985年10月号では、その1人、吉崎博子氏の独占手記を載せている。8月12日18時12分、大阪・伊丹に向かって日航123便は羽田を飛び立った。吉崎家の5人はキャンセル待ちの末に取れた後部座席に座った。

「乗ったときは、1番窓に近い席に(引用者注・長男の)充芳が、その隣に主人、私、(次女の)ゆかり、(長女の)美紀子の順番で座っていたのです。

『富士山がみえるよ』

充芳がそう言って、はしゃいでいたのを夢うつつにおぼえています。

その直後、ドーンと、ものすごい音がして眼がさめました」

 白い煙が機内に広がり、乗客は酸素マスクをつける。

「やがて、飛行機ははげしく揺れだしました。ジェットコースターにでも乗っているような感じで、真逆さまに落ちてゆきます。窓の外の景色がどんどんかわりました。(中略)激しい衝撃がしました。黄色い煙が出て、上からバラバラ、何か落ちてきました。私はそれっきり、気を失ったようです。

目がさめたときは、真暗闇でした」

 漆黒の闇のなか、遠くで「お母さん」という長男の声が聞こえた。だが自身は瓦礫に埋まって動けない。長女は次女の遺体を見つけたあと「ここにあるのは、お父さんじゃない」と言う。

「たしかに、眼の前に枝のようなものがあります。私には、夫の手と足の骨のように思えました」

 その後、ヘリコプターの音がし、明け方になると多数の人の声が聞こえてきて、吉崎母娘の2人は助かったことを知った。生々しい描写と生き残った喜びと苦しさ。「史上最悪の航空機事故」の実態を伝えるこの手記は、肉声の重みを改めて知らしめるものだった。

日航機墜落事故の現場
日航機墜落事故の現場

1990年8月号 金賢姫 全告白 悪夢のすべて

 80年代には事故だけではなく、飛行機へのテロ事件も、社会を震撼させた。大韓航空機爆破事件である。事件の概要は記事のリードが過不足なく説明している。

「87年11月29日、乗客、乗員115人を乗せたバグダッド発ソウル行の大韓航空KE858便がミャンマーの南方海上付近で消息を断った。その2日後、バーレーンの空港で『蜂谷真一』、『蜂谷真由美』という日本人名義の偽造旅券を持った男女が身柄を拘束された。その場で2人とも服毒自殺をはかり、男は死亡、女は生き残った。取り調べの結果、この男女は朝鮮民主主義人民共和国の工作員、金勝一キムスンイル金賢姫キムヒョンヒであることが判明した」

 その金賢姫の単独インタビューが行われたのは、事件から2年半後の90年6月。5時間15分の長きに及んだ。テロリストがその心境を自ら語るという貴重な記事だった。

 金に日本人化教育を施した李恩恵リウネという女性についてこう語る。

「その先生は78年ごろに北に拉致された日本人女性で、日本には親戚もおり、子供は2人で、当時女の子が1歳、男の子が3歳だったそうです。(中略)北にいた時学んだ典型的な日本人女性とは違うような気がしました。きちんと家庭教育を受けた礼儀正しい人ではなかったような気がしたのです」

 この時点では、その女性が埼玉県出身の田口八重子氏とはわかっていない。取材陣は当然その女性について尋ねた。だが、取材に立ち会った韓国・国家安全企画部の人間は、「韓日間の外交上の問題もありますので」と質問を打ち切った。

 そして証言は爆破事件の核心部分へと進む。爆破指令は金正日の「親筆指令」、つまり直々の命令だった。

「目的は、五輪でふたつの朝鮮化をはかろうとする南韓傀儡かいらい政権と米帝が企てたソウル五輪を妨害するということでした。そのために出発前15日間の準備がありました」

 準備とは大韓航空機に乗るまでのルートや脱出ルートの研究、爆破装置を仕込んだラジオの模型を使ったスイッチや爆破時間の合わせ方の練習だった。そして緊急の際、自害するための特殊なタバコを渡された。

「20本のタバコのうち1本だけにタバコの屑が糊付けされていて、そのフィルター部分を噛めば青酸ガスが吹き出して即死できる、何かあったときには秘密を守るようにということでした」
金賢姫
金賢姫

洗脳からさめたテロリスト

 バグダッドで大韓航空機に乗りこんだ2人は、9時間後に爆発するようセットした爆発物の入ったバッグを機内に置いて経由地のアブダビで降り、そこからバーレーンへ入る。ローマへ出国しようとしたが、空港でバーレーン警察に逮捕された。その際、毒入りフィルターを噛んだが、死には至らず病院に運ばれた。その後、韓国に移送された金は、尋問に対して、日本人だと押し通そうとしたが、それは難しかった。

「北で習ったことは習ったのですが、たとえば日本では自動車のハンドルは左右どちらについているかとか、日本での自宅の構造、成田空港の構造、成田に行く途中の看板で覚えているものはないかとか聞かれ答えられませんでした」

 韓国の実情を理解するにつれ、自身が洗脳されていたと気づいた。

「私は北の道具として罪を犯すことになりました。罪のない身で自由世界に来ることができたらどんなによかったでしょう」

 90年3月、死刑判決が確定した金だが、翌4月に韓国政府は特別赦免を実施している。

 「大罪を犯しました」「遺族の方々に申し訳ない」と繰り返す金。その心境が伝わってくる。

 事件取材を重ねると、少なからぬ加害者は罪を認めず、反省をすることがないことが分かってくる。犯行動機さえ曖昧な人物もいる。そんな人物の走りは、平成という時代の始まりに現れた。

1989年10月号特集・幼女誘拐連続殺人事件 単独会見記 針のムシロに坐る父親 坂本丁次

「まるで針のムシロに坐っているような毎日で……。こんなに苦しむのなら、いっそ死んだ方がどんなに楽か」

 1989年8月、そう旧知の記者に心中を打ち明けたのは東京・五日市町(現あきる野市)で印刷業を営む59歳の男性。彼はこの前年8月から埼玉や東京郊外で断続的に起きていた幼女誘拐、殺人事件の犯人、宮崎勤の父親だった。

 この事件が異様だったのは、行方不明となった女児の遺骨を遺族に送りつけたり、女性の名で犯行声明を新聞社に送りつけたりと犯行を楽しむような行動があったことだ。

 事件が判明したのは別のわいせつ事件がきっかけだった。八王子市で宮崎が幼女にわいせつ行為をしているところを被害者の父親が拘束、宮崎は警察に逮捕された。それが思わぬ展開に進んだ。取り調べのなかで、宮崎が連続誘拐殺人の関与を認めたためだ。捜査を進めると、大量に保有していたビデオのなかに殺害後に撮影した映像が発見された。

 1989年10月号の本誌は、ルポや評論など複数の視点で宮崎事件を扱っているが、そのうちの一つが宮崎の父親との単独会見記だった。著者は父親を長年個人的に知っていた東京新聞の坂本丁次記者(当時)だった。当初、宮崎の父親は息子の犯行に半信半疑だったが、後日、単独会見で坂本記者に会った途端、「こんなことになってしまって……」と泣き崩れた。

 この事件で注目された事象はいくつもある。5000本以上のビデオ、猟奇的な映画、ロリコンという幼女趣味、そして「オタク」と広く呼称されることになった存在……。

 ビデオに浸るようになったきっかけについて父親はこう答えた。

「勤が幼い時、手が不自由なのを気にし、一時は手術させようと思ったが、手術がうまくいかない場合のことを考えてやめた。勤はその後、多くのことがうまくいかないのは、すべて手のせいにしていた。そのうっぷんがビデオに向けられたのかな」

 さらに父親はもう一つ気になった宮崎の異常な行動を思い出した。

 前年5月、宮崎が慕っていた祖父が亡くなった。宮崎に祖父の遺品をどう分けようと相談したところ、

「おじいちゃんのものを、みんなに配るなんてダメだ。出て行け」

 と叫び、家の窓ガラスをたたいて割ったという。宮崎が最初の犯行に走った8月のことだった。

 だが捜査や裁判で宮崎から真摯な反省や動機について語られることはなかった。父の証言は宮崎を理解する貴重な手がかりになっていた。

 この事件以降、動機が解明されない犯行の心理的背景を探る取材が広く行われていくことになった。

宮崎勤
宮崎勤

1991年4月号独占手記 イトマン問題と私 なぜ磯田一郎氏を恨むか 河村良彦

 1985年のプラザ合意に端を発する円高と株式市場の高騰、むやみな不動産投資は、日本に「バブル」経済を引き起こした。1990年3月の不動産融資の総量規制を契機にそのバブルは弾け、無数の不正が暴かれていったのが90年代だった。

 なかでも印象深いのはイトマン事件だろう。繊維系商社イトマンが不動産や絵画の取引に約3000億円を投融資した結果、回収不能となった。市場の数倍の価格で絵画を購入して会社に損害を与えたり、取引の際、実態の不明な会社を経由していたためだ。こうした背任容疑で前社長や前常務ら17人が1991年8月、大阪地検によって逮捕された。

 事件の中心人物だった前社長の河村良彦が手記を寄せたのは、逮捕より4カ月前の同年4月号だった。

 河村はイトマンの財務を悪化させた張本人である常務の伊藤寿永光についてこう語っている。

「そもそも伊藤萬と伊藤寿永光君の付き合いは、住友銀行関係者の紹介で始まったのです。(中略)初めて会った印象は、勘の鋭い、話が極めてうまい人物だというものでした」

 伊藤は入社早々、銀座の400坪の地権者との取引をまとめたという報告をした。だが、それはまったくの嘘だとすぐに判明した。

 そんな伊藤を一方に抱えつつ、河村自身は住友銀行の「天皇」と呼ばれた磯田一郎の配下として活動していたことも、自ら開陳している。

「私と磯田さんは言うまでもなく住友銀行での先輩と後輩です。(中略)私はこれまで磯田さんのいうことはなんでも聞いてきました。自分で磯田一家の第一か第二の番頭格のつもりでこれまでやってきたのです」

 イトマンによる莫大な絵画取引が起きたのは、そんな磯田と河村の関係があったためだ。画商の会社にいた磯田の娘、黒川園子とその夫から、絵の買い手を知らないかと依頼を受けた河村は、伊藤に相談した。

「そうしますと伊藤君がすぐ飛びついてきました。彼は絵画について素人だと思っていたら、『私の知り合いには絵画をちゃんと知っている人がおりますし、百貨店にも知っている人がおります。是非、私にやらして下さい』と言ってやりだしたのです」

 動いた絵画は「ロートレック・コレクション」や「アンドリュー・ワイエス・コレクション」などで総計122億7000万円。それらの代金はなぜか「あまり評判よくない」会社、関西新聞に対して手形として140億円分振り出されていた。

 この関西新聞の実質的なオーナーが許永中という人物だった。河村は前年5月に関西新聞から広報担当として4人がイトマンに来たが、それは伊藤の勧めによると綴っている。

「会社としてのマスコミ対策を話し合ったところ、伊藤君が関西新聞の連中を連れてきた」

 広報対策が許を引き入れるきっかけであり、その後の大規模な不正取引の入り口だった。

 この記事は逮捕直前に被疑者本人が事情を説明しているという点、また複雑な構造をいち早く説明したという点でも特異な記事だった。だが、イトマン事件はこの記事だけで語り尽くせたわけではなく、結果的に本誌は繰り返し扱うことになる。

1998年4月号 許永中失跡 カギを握る男 魚住昭

 このイトマン事件の裁判では、主犯の一人である伊藤寿永光には公判が始まる直前まで、有力な元特捜検事の弁護士がついていた。のちに「闇社会の守護神」の異名をとることになった田中森一である。

 田中は、田中角栄以来となる、現職代議士を起訴した撚糸工連事件を手掛けた敏腕特捜検事として知られていた。だが、1987年末に突如退職。その後、反転し、不動産や株などバブルに踊るグレーな紳士たちから頼られる弁護士となった。その交際範囲は広く、伊藤寿永光や許永中から、山口組系組長の宅見勝、仕手筋・光進の小谷光浩といった方面から、安倍晋太郎や山口敏夫といった政治家まで広範に及んでいた。

 じつは、その田中が特捜検事をやめたことを早くから取り上げたのが本誌だった。1988年1月号の「特捜検事はなぜ辞めたか」でジャーナリストの真神博は東京地検が「巨悪を眠らせる」動きのなかで、田中の退職があったことを報じている。

 その後、田中が本誌に登場するのは10年後の1998年4月号だ。サブタイトルに〈特捜検事はなぜ「転向」したか〉とあるように、田中の立場は一変していた。石油卸・石橋産業に絡む手形詐取事件の片棒を担いだとして、被疑者という立場になっていたのだ。

 取材にあたったジャーナリストの魚住昭は「伝説の特捜検事はなぜ、地下経済の迷路に踏み込んだのだろうか」と田中に迫っている。魚住は取材早々意外な話に驚く。田中は地下経済の人物とのつながりを隠さなかったからだ。田中は言う。

「実際、許永中とは仲いいよ。あいつは素晴らしい頭をしていて、義理人情にすごく厚い男だからね。(中略)世間で言うたら、ヤクザイコール悪だけど、僕はヤクザな男のほうが魅力感じるもんね。だけど、仕事は別だよ」

 また、宅見についてもこう語る。

「人間としての魅力や統率力もあったし、とにかく素晴らしい人だった。だけど、私はあの人とはヤクザとしての付き合いはしてないよ」

 当時の経済事件の登場人物のほとんどと何らかの関わりをもつ田中に対して、魚住は「尋常な現象ではない」と指摘した。

許永中
許永中

狙われたら逃げられない

 その田中は、逮捕されることになった石橋産業事件の詐欺容疑について、検察の筋立てをまったく認めなかった。その方針は最高裁に進んでも変わらなかったが、自身が追われる側になったときの心境については後年、語っている。

 2007年11月号と12月号の立花隆による10時間インタビュー「私が見た闇社会の怪物たち」「特捜検察の正義と病巣」を掲載。そこで田中は捜査される側の怖さを吐露している。

「『捜査される側』になってつくづく、特捜事件で一度ターゲットにされたら逃れようがないと思い知った。石橋産業事件では、僕を逮捕するにあたって、『許永中と共謀して、石橋産業グループから巨額の約束手形を騙し取った』という筋書きが細かくできていたわけ。だから、取調べで僕がどれだけ新たな事実を話そうとも、特捜はそれには全く耳を貸さないんです。(中略)大体、東京地検特捜部には、『事件はつくるもの』という意識がある」

 これについては、当の許永中自身も裏付けるようなことを述べている。後年の2018年4月号「許永中の告白『イトマン事件の真実』」で、許はこう語っている。

「検察の狙いは私やない。田中森一さんでした。捜査に着手した時に東京地検にいた石川達紘さん(現弁護士)と佐渡賢一さん(前証券取引等監視委員会委員長)が『絶対に田中を逮捕する』と執念を燃やしたのです。石川さんは田中さんの東京地検特捜部時代の上司。2人がある事件が原因で衝突した挙句、間に立つ副部長がノイローゼになって自殺した。そして田中さんは弁護士に転身してカネを儲けました。石川さんと佐渡さんはそれが許せなかった。(中略)石橋産業事件で私と田中さんは共犯だとされていますけれど、とんでもない。田中さんと組んだことは1度もありません」

 2度の服役を経験した許が、田中も故人になっている状況でこう田中をかばう。そこに一定の真実性があると見ても不思議ではないだろう。

1994年9月号 あの夜 私の家で起こったこと 河野義行

 90年代に日本を揺るがせたのは経済問題に限らない。なかでも、神経ガス・サリンの散布などで多数の死者、傷病者をもたらしたオウム真理教の一連の事件は、もっとも日本の治安を不安に陥れたものだ。

 松本サリン事件は発生当時、まだオウムによる犯行とわかっていなかった。1994年6月27日夜、長野県松本市の住宅地で神経ガス・サリンが噴霧され、最終的に8人が死亡した。

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source : 文藝春秋 2022年7月号

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