第一目撃者

記者は天国に行けない 第3回

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「お前は雁首がんくびを集めろ!」私は夢中で泥の川をあさった。

1

 ダラヤという中東の町の図書館が、シリア内戦の中で一瞬の光輝を放ったことがある。戦場で生まれ、消えた図書館である。

 その町はシリアの首都・ダマスカスの近郊にあり、2012年から4年もの間、約1万人もの市民がアサド政権軍に抗して籠城を続けた。町は砲撃を受け、TNTと鉄屑が詰まった約6000発の樽爆弾や火炎爆弾にさらされ、飢えとも戦いながら生き延びていた。

 やがて若者たちが残骸に埋もれた本を回収し始め、地下の空間に集められた。本は歴史から心理学、児童文学まで約1万5000冊にも達した。そこは初めての公の図書館となり、包囲下で感情が擦り切れかけた市民や兵士が次々と本を手に取った。成長するため、正気を保つため、あるいは戦争の狂気から逃げ出すために読んだのだという。

 その町の名と抵抗人の存在を広く知らしめたのは、『シリアの秘密図書館——瓦礫から取り出した本で図書館を作った人々』(東京創元社)というノンフィクションである。

 読者を驚かせたのは、フランス人ジャーナリストのデルフィーヌ・ミヌーイがイスタンブールにいながら、スカイプやメッセージアプリを活用して取材したことである。彼女は封鎖された町に行こうとしたが阻まれ、不安定なネット回線を通して、ついに破壊された町に残る青年と接触する。そして、約1年に渡って、ネットの向こうの市民の証言を集めていった。

 この本を手にすると、私たちが新聞で試みた調査報道は、通信手段の革新で異次元の世界へと到達しつつあることを痛切に感じる。立花隆が文藝春秋誌上で繰り広げた田中角栄金脈追及がその象徴だが、かつては現場をひたすら歩き、法人・不動産登記簿を辿りながら証言を集めた。

 現代はインターネット上に存在する画像や映像を駆使する「オープンソース・インベスティゲーション(公開情報調査)」の時代だという。オランダの調査報道ウェブサイト「ベリングキャット」は、このネット公開情報調査の手法で、現場に行くことなく、2014年のマレーシア航空17便撃墜事件の真相の一端を明らかにした。

 だが、私が刮目したのは、前述のジャーナリストがシリア取材の最後に、包囲された町から逃れた人々に会いに行ったことである。この本について、彼女がネット回線を通じて書き上げた、と報じた日本の新聞もあったが、それは少し間違っている。

 ダラヤが政権軍に屈した後、彼女はトルコに脱出した住民や教授らを探して取材し、イスタンブールを訪れた関係者にも会っていた。集まった情報を突き合わせるために、ネット取材を中断して、外交官や人権活動家らに裏取りをしたこともある。そこまでしなくても本は完成したであろう。しかし、この誠実な直接取材がなければ、若者の一人が避難先で小型バスによる巡回図書館を始めたという、未来に続く話や写真は知られることがなかったに違いない。戦場の図書館の精神はそんな形で引き継がれていった。

 私は、当事者か第一目撃者に近い人々を追え、と教えられてきたのだが、彼女はSNSを駆使する一方で、やはりその原則を貫いて記録したのだと思う。

 現場には近づけない。見ることができない。それでも目撃して、何としても報じたい——。その葛藤を彼女はこう記している。

〈目を開き、パソコンの画面越しに町の光景を見る、それは現実を歪める危険を冒すことだ。目を閉ざす、それは現実に沈黙を強いることだ。(中略)書くこと、それはこの不条理を理解させるために真実のかけらを寄せ集めることだ〉

 いつの時代も、精一杯に目撃者を追い求めれば——取り憑かれた彼女のように——第一目撃者以上に胸を打つ記事と記録を残すことができる。記者の原点を、この本は静かに教えている。

2

 さて、私の原点は1975年、著者のミヌーイが生まれた翌年のことである。インターネットという言葉さえなく、腐臭や泥濘の中でもまれていた。最も鮮烈な記憶は、青森の解剖室の出来事である。

 これは一つの警告なのだと私が気づいたのは、病院の解剖室で変死体の絶望的な腐臭を浴び、ほうほうの体でそこを出るときだった。

 その日の明るいうちに、青森港に変死体が上がった。岸壁近くの波間に浮かんでいた。事件取材は出足の良さが記事の出来栄えを左右する。新聞は朝刊一つをとっても、地方へと発送する早版(早い版建て)に始まって、都心に向けた締め切りの遅い最終版まで、一晩に3種類もの新聞を制作する。意外なことに、興奮のあまり捻りだした早版向けの第1報が、体裁を整えた第2、第3報よりも驚きと臨場感に満ちて出来が良かったりもするし、何よりも荒らされていない現場は記者にツキを呼ぶ。私は学生時代、デモに参加したころから最前列の目撃者でありたいと願っていた。喧嘩、口論、デモに火事、何でも前の方で見るか、加わるに限る。

 そのときも、記者クラブから真っ先駆けて岸壁に走り、写真を撮り、取材を終えて帰ろうとした。そこで声をかけられた。ねぶたの関羽のように大きな頭を持つ、青森警察署の刑事課長である。

「解剖みでいぐか。死ぬごどがどったごどが、わがってねんだびょん」

 語尾だけを聞くと濁ったフランス語のようだが、彼の言葉には有無を言わせぬ響きがあって、私は彼らの車に乗せられ、解剖室に連れて行かれた。

 産経新聞文化部出身の司馬遼太郎は、新聞記者が持つ「卑しむべき3つの悪しき、そして必要とされる職業上の徳目」として、競争心、功名心、雷同性を挙げている。青森でサツ回りの日々を送る私は、早くもそうした2つの病に染まろうとしていた。

 初めこそ、「ヤキトリが2つ出ている。火事現場に走れ」と隠語で指示を下す読売新聞青森支局のデスクに驚き、「マグロがあるらしい」という先輩の言葉に違和感を覚えていたのに、いつの間にか、警察の借り物のそんな隠語を使い、より異常な死のニュースを求めて走るようになっていた。ちなみにヤキトリは焼死体、マグロが轢死体、土左衛門なら水死体のことである。先輩に倣い、隠語を粋がって使うのも、また記者の雷同性から来るものだろうが、ねぶた課長には若造の浅薄な様が我慢ならなかったのだろう。

 初めて入る解剖室である。すでに腐臭が漂い、白い寝台とぶよぶよと膨れ上がった裸体しか目に入らなかった。頭部は形も崩れている。体も精神も朽ちた物体。邪魔にならぬよう後列にいた私は、目を見開いて無防備に見守っていた。

 刑事たちが寝台の上の仏様に手を合わせ、警察医のメスが入る。とたんに肉とはらわたの奥まで溶けた、嗅いだことのない臭いが、ハンカチで押さえた鼻を襲ってきた。恐ろしい腐臭はそれから目を刺し、胃袋まで到達した。私はたまらず歯を食いしばり、これ以上は下がれないというぐらいぴったりと白い壁にくっついた。息もつけず、こみ上げてくる吐き気に目を白黒していると、刑事課長の顔に薄笑いのようなものが浮かんでいるのが見えた。

 ——なめんなよ。

 険しい視線がそう言っている。検死が終わると、課長は向き直って、「俺たちは毎度こったら臭い嗅いでメシを食っちゅんだ。楽でねぞ」と言った。

「プロどすて切に生ぎでらんだ。おめはどうなんだい」

 現場を甘く見るんじゃないぞ、という程度の意味だったかもしれないが、早くも人間の死や霊魂に鈍麻した己を見透かされたようで、恥ずかしかった。そして、切に生きる刑事のプロ意識に触れたという実感があった。いい記者になりたい、素直にそう思った。

 新聞記者になり、新聞を隅から隅まで読むようになって気付いたことがある。死は私たちの身近なところに溢れ、特に新聞の社会面は不幸と異変の、喜怒哀楽の4文字で書けば、「怒」と「哀」のニュースに満ちていることだ。逆に言えば、そうしたニュースをあえて集めているのが新聞ということになる。

 私は心のどこかでそれを疑問に思っていた。それで後年、読売新聞中部本社の社会部長に就いたとき、喜怒哀楽の「喜」と「楽」だけのニュースで埋める「幸せの新聞」を週に1度作った。編集長は私が兼ねた。

 中部読売発行の新聞の丸々1ページに、〈この新聞に悲しいニュースは1行もありません〉と謳って、再起する人々の物語や、盲導犬とともに生きる大学生の日記、胸に残る幸福な手紙、心に響いた言葉などを社会部員とともに次々に紹介したが、私自身も筆を執り、編集作業にあたるとき、新聞はもっと優しく、人の痛みに耳を澄ますことがあってもいい、と考えていた。「幸せの新聞」の試みについては、別の機会にまた述べたい。

 解剖を終えたときの話に戻る。

 そのころの地方版には、新聞の読者獲得のために「お悔やみ」という欄があり、支局当直者は毎朝、主要な役所に電話を入れ、届け出のあった死者の名前を教えてもらって掲載していた。それに加えて、若手記者は「亡者記事」と呼ぶ訃報を定型通りに書かされていた。

 兵士たちが戦死という同じ死の形を取るしかなかった時代とは違って、平和な時代には一人一人異なる死の形と意味がある。だが時間に追われるなかで、日々書き飛ばしているのは、その死の形や亡くなった相手に一片の思いも馳せることのない、無表情の訃報記事だ。

 それらは、私たちが「やっつけ」と呼ぶ情報処理だった。人間の生のニュースよりも、新米記者はまず、他人の死を情報のベルトコンベヤーに乗せて送り出すことに追われていたのだった。

 そんなことを考えながら支局に戻り、胃からこみ上げるむかつきを抑えて、変死の短い記事を黙って書いた。しばらくすると、

「なんだ、この臭いは!」

 という声が聞こえ、小さな騒ぎになった。死の臭いは何かを伝えるかのように、私の髪の毛や毛穴の奥まで浸透していて、上着を脱ぎ何度手を洗っても消えなかった。一種の回心のようなものを得たと書くと大げさだが、少なくともそれからは亡者記事を丁寧に書くように心がけた。

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青森市のベイエリア

3

 解剖室の光景が忘れられない理由はほかにもある。それは刑事だった父の失態の思い出と重なるところがあるような気がした。

 私が小学生のころの話である。宮崎県警延岡署に勤めていた父は、大分県下で捕まった大泥棒を同僚と引き取りに行き、列車で護送している途中に、両手錠のまま逃げられてしまった。泥棒は宮崎や大分を荒らしまわっていた大物だったので、連行の際に事故がないように父たちがわざわざ護衛に行ったのである。ところが、容疑者は列車が延岡市に近い鉄橋に差し掛かった際、暑さに耐えかねて乗客が開けた窓の隙間に体を巧みに入れ、するりと身を川に投じたという。

 警察も新聞も大騒ぎだ。父は辞表を書く寸前まで追い詰められた。数日後、大泥棒は水死体となって見つかった。母方の実家である宮崎県高鍋町から心配した祖父がやってきた。警察の駐車場に土壁で接した、わずか2間の小さな官舎である。警察の車が壁にドンと当たろうものなら、家が揺れた。

 夫婦喧嘩の声が届くところに警察の留置所があり、逆に留置人のうめき声も聞こえるような我が家と3軒の平屋の官舎が、留置所を囲むように配置されて、さらに板塀で外の世界と隔絶されている。

 大泥棒を逃がしたあと、父は祖父から、

「辞めるしかないとなら、うちで百姓をやれば良い。何とかなるわい」

 と告げられていたという。結局、父は刑事を辞めずに済んだが、それからかなりの間、巡査部長試験も受けられず、ヒラ刑事のままだった。

「あんたのお父さんは出世せんねえ」。父方の叔母に言われるたびに思った。薄給で働き、駐車場にセミのようにくっついた官舎につましく住み、ひとたびミスがあればこれほど苦しまなければならないのか。ねぶた課長の言葉ではないが、切に生きて、その結果がこうなのだ。

 現代では、森友学園疑惑で公文書改竄を指示した財務省理財局長・佐川宣寿が国税庁長官に出世し、非業の死を遂げた職員の家族にまともな説明すらしないでいる。隠し、改竄し、語らず、逃げる——。そうした厚顔な高級官僚たちとは対照的に、下積みの公務員たちは辞表を胸に抱き、重く苦いものを背負って、きっぱりと責任を取らなければならない。その現実を、警察という覗き窓から私は見つめていた。

4

 そのころの私の心を激しく打った出来事がもう一つある。それは、ふっと気を抜いて泥酔し寝過ごした翌朝に来た。1975年8月6日午前7時過ぎのことだった。

 ——ああっ、しまった!

 焦ってスイッチを入れたラジオのニュースが、前夜からの豪雨で大規模な土石流惨事が起きたことを繰り返し伝えていた。現場は岩木山の麓に広がる青森県中津軽郡岩木町(現・弘前市)である。

 岩木山は津軽富士と呼ばれる優雅なお山だが、その山腹斜面が崩壊し、濁流と巨岩が谷底を削り、砂防堰堤を壊し、百沢地区約80戸の寝込みを襲ったのだ。私は青くなった。気を張り詰めていたのに、夏の集中豪雨の恐ろしさを全く知らなかった。私が酒を飲んで寝入っていた未明に津軽のリンゴの里が襲われ、青森県史上最悪の土石流災害が起きていた。死者が22人、重軽傷者も31人に上った。

画像2
 
岩木山

 当時の読売新聞青森支局は約10人が詰める支局本体と八戸、弘前、五所川原、むつ、十和田、三沢の6つの通信部から成っており、現場は弘前通信部の管内だったが、支局で応援態勢を組むのが少し遅れたようだった。だとしたら、それは支局当直者と、午前6時半起床のサツ回り、つまり私の責任でもあった。

 寮から支局に走り込み、応援取材班に加わったが、誰もが気が動転していて、私をとがめるどころではない。なおさら申し訳ないという気持ちが募った。

 ホロ付きジープのハンドルを握ったのは、運転手出身のベテラン記者で、「シブちゃん」と呼ばれていた。白髪混じりの長髪を綺麗に撫でつけた伊達男だったが、現場に向かう国道に突進し、渋滞の列に読売の旗を立てたジープの頭をぐいぐいと突っ込み、一台ずつ実に巧みに抜いていく。

 彼は地元採用の青森市政担当でもあり、市政財界の裏事情や夜のゴシップに通じているのに、ニヤニヤしながら支局に上がってきて、めったに記事を書かない。デスクを悩ます“書かざる大記者”なのである。ところが、この日のシブちゃんはアドレナリンが全身に満ちて神々しいばかり、微笑を浮かべて狭い側道を突っ走り、脇道を抜け、ほれぼれするほどの腕前を見せた。

 そのころの私は火事場でも事件現場でも真っ先に着こうと、暴走気味の運転を繰り返していた。サイレンを響かせる消防車の真後ろにぴったりと付いて走っては、交差点で脇から車に突っ込まれ、肝を冷やしたことも一度ならずあった。だが、シブちゃんの腕前を見て、自分の未熟さをはっきりと悟った。

 現場にたどり着いて仰天した。百沢地区の中心部がそっくり消えている。

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source : 文藝春秋 2022年4月号

genre : ニュース 社会 メディア 昭和史