文と度胸

記者は天国に行けない 第4回

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「最初、頭へボンとぶつける」。伝説の名文家が明かした文章の極意。

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 村尾清一きよかずは、読売新聞の夕刊コラム「よみうり寸評」を17年3か月も執筆し、日本記者クラブ賞を受けた元論説委員である。ユーモアを好み、ふっくらとした性格で、その文章を、「僭越ながら、たいへん上質である」と、彼の後輩で作家の本田靖春が評した。

 駆け出しのころから、村尾はコラムニストを目指していた。社会部記者のとき、まだ週刊新聞「読売ウイークリー」の記者だった渡邉恒雄を連れて、木下サーカスの取材に行ったことがある。渡邉は東大の後輩でもある。読売本社に戻り、便所に2人で入った。村尾によると、

「そこで『僕はゆくゆくはここでコラムを書く。それを狙ってるんだ』と言ったら、ナベ(渡邉)がオシッコしながら、『村尾さん、僕は社長になります』と言うんだよ。僕はそれを同期入社の菊村到(のちに芥川賞作家)に話したら、『世の中にはいろんなアホがおるな』と言った」

 これは朝日新聞の記者だった筑紫哲也も書いていることだが、新聞社は「いずれ社長になりたいと思っているものはまずいない」といわれる職場である。

「それが本当に社長になったんだからな。あれは部長になるまでは桁違いに面白い人間だった。部長になって出世を頭に入れだしてから、ちょっとおかしくなったけどね」

 その村尾が、先輩に記事の極意を尋ねたことがある。辻本芳雄という3つ年上の遊軍記者だった。長身で、黒メガネ、好んでダブルの背広を着ていた。

「辻本さんは、みいちゃんはあちゃんが好む文章を書くけど、どう書けばいいんですか」。みいちゃんはあちゃんとはミーハーの語源で、この場合は庶民、大衆を指している。

「そうやなあ。最初、頭へボンとぶつける。それからフワフワフワッと書いて、終わりはストンと落とすか、キュッと結ぶんや」

 まず迫力のあるところを冒頭にぶつけて掴かみを取れ。そして、起承転結で言えば承、転とフワフワという具合につなぎ、意外な結論に落とすか、小気味よく結べ、というのだ。辻本は大阪から文才を買われて東京社会部に抜擢されていた。前述の本田も「師」と仰いだ異才である。禅問答のようだが、村尾は何か掴かむものを得、その言葉を忘れなかった。

 間もなく100歳になる村尾の自宅で、この話を聞いた。思い出すときに、村尾は少しまぶしそうな顔をした。辻本は58歳で逝ってしまった、懐かしい書き手だったのである。

「辻本さんはね、読売の大阪支局で給仕をやっていて、見よう見まねで記事を学んだ。そして、名文というか、大衆が分かるような記事を書いた。それを社会部長だった原四郎(のちに副社長)が抜擢したわけですよ。読売なんかは大衆紙ですからね」

辻本
 
辻本芳雄(右列の下から2人目、『記者風伝』より)

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 辻本の文才を原が見出すまでに紆余曲折がある。辻本は父親を早く亡くし、大阪の尋常高等小学校を出ると、14歳で地元の読売支局に入った。「ぼうや」と呼ばれる給仕だったが、取材や原稿執筆を手伝ううちに、やわらかな記事を書く技術を身に付けた。読売がまだ東京のブロック紙に過ぎなかった時代である。

 その才能を惜しむ上司がおり、その一方で東京に届いた原稿が原たちの目に留まった。母ものか人情もので、生き生きとした筆致だったという。1942年、東京の社会部に引き抜かれ、戦時下の社会部で遊軍記者に就いた。同じころ、この連載の1回目で取り上げた「酔いどれ記者」こと、羽中田誠も農民運動などを経て、読売社会部で働くようになっていた。

 その翌年のことだ。連合艦隊司令長官・山本五十六がソロモン諸島上空で戦死した。連合軍の反攻が本格化している。辻本が取材に向かった山本宅は、国民的英雄の家とは思えないほど小さかった。

 彼の著作『夕刊小僧』(鱒書房)などによると、ラジオが悲報の臨時ニュースを伝え、しめやかに「海ゆかば」が流れた。辻本は意を決して玄関の戸を開ける。女性たちの嗚咽が聞こえた。狭い家だから中が一目で見えた。床の間に山本の遺影が置いてあり、そこに花を飾っただけの仮祭壇がしつらえてあった。

 それを撮らせてくれと頼んだが、葬儀委員は「ならん!」と語気も荒い。明日、ちゃんとしたものを作るから待て、というのである。一方、社会部デスクは、「簡素な仮祭壇こそが五十六さんらしい。絶対に撮れ」と言う。

 悩んでいるうちに、締め切り時間が迫ってきた。弱った辻本は各社の記者と示し合わせた。

「やっちまおう」

 そして山本宅の縁側に忍び込み、障子を「イチ、ニ、サン」でパッと開けて、カメラマンが写真を撮った。その瞬間、髭の厳めしい海軍士官が「無礼者!」と叫んで飛び出してきた。記者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。青森署の取調室のドアを「イチ、ニ、サン」で開けて撮影した地元紙記者たちにそっくりだ。あのアパッチ記者たちは警察を襲撃したが、こちらは海軍相手に「軍神」の居間を襲っている。

 翌日の朝刊で、その写真を掲載したのは読売だけだった。他紙は写真撮影に失敗したのだろうか。辻本はびっくりしたものの、その足で再び山本宅に出かけた。

 一夜明けた山本家の様子や本物の祭壇の取材が残っていた。思ったとおり、山本宅では髭の海軍士官が、「読売はいるか。あんな無礼なことをして! つまみだしてやる」と息巻いていたが、辻本は胸の社章バッジを裏返しにして取材を続けた。

 こんな取材を重ねているうちに、彼はこう思うようになる。

 ――理屈はともかく、記者を仕事にしたなら度胸こそが必要だ。人々が深々と頭を垂れているときに、記者はひとり頭をもたげていなければならない。その頭上で軍刀が振り回されたり、拳銃を突き付けられたりしても。

 山本が戦死した翌1944年の秋、辻本は大阪に母と妹を残してフィリピンに発った。陸軍の報道班員としてフィリピン防衛の要である陸軍第十四方面軍に従軍するよう指示されたのだ。大本営は「比島決戦」を唱えていたが、山下奉文ともゆき司令官(軍事裁判で刑死)率いる十四方面軍は、マッカーサーの連合軍の前に北へ北へと敗走し、辻本も将兵らとともに9か月ルソン島のジャングルを彷徨した。日本人戦没者は約50万人。兵士の多くは戦う以前に疫病と飢えで倒れている。

 辻本たちは敗戦を知らず、投降を呼びかける米軍のビラを読んで、よろけつつジャングルから出てきた。それで奇跡的に生き残り、敗戦から4か月後にようやく米軍捕虜収容所から広島港に戻ってきた。だが、身体はマラリアに侵され、療養を続けながら再び大阪の支局で働く。調子の良いときもあるのだが、突然、震えだしたり、高熱と悪寒で立っていられなくなったりするのだ。

 東京の社会部に復帰するのは復員から1年後の秋だ。鬱憤を晴らすかのように、自宅でも書いた。胡坐をかき、ちゃぶ台に原稿用紙とウィスキーの水割りを置いて万年筆を走らせた。書きたくて仕方なかったのだ。後年、酔うと長男の浩たちをそばに座らせて、「あれは地獄や」と延々と戦争の狂気を話した。

「大勢の人が死ぬのを見た。母国に帰ってきて、それからはおまけの人生や。というても、おまけのほうが長くなったんやがな」

 戦後の辻本に付けられた綽名が「アホらし」という。「何でも『アホらしい』と言うんですよ。彼にとってあらゆる事件はアホらしいんですよ」と村尾は語る。それは従軍で見た空しい記憶が語らせたのではないか。

 読売は戦後、社会部を前面に押し立て、大衆紙として朝日、毎日の向こうを張った。それを牽引したのは、名伯楽としての原と辻本である。社会部長になった原は30歳の辻本を社会部次長に抜擢し、1954年の正月に原子力をテーマにした連載「ついに太陽をとらえた」を始め、主要な連載を辻本に任せた。

 読売はその年の3月に、マグロ船「第五福竜丸」が水爆実験で被爆したスクープを世界に発信したが、それは「ついに太陽をとらえた」の連載を手掛けた辻本と村尾らが当夜の当番にいて、焼津通信部記者・安部光恭の第一報の重大さに気付いたからである。一報を受けたとき、当番デスクだった辻本は「ややややや!」と大声を上げて、「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇 23名が原子病」という見出しの、紙面半分をつぶす社会面を作った。

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 辻本の大きな仕事は、古い読売の社史には何ページにも渡って詳細に刻まれていた。だが、時が経つと社史の扱いも極端に細り、業績や伝説は忘れられていく。

 ちゃぶ台で記事を書く彼の人柄と文章を私に教えてくれたのは、青森支局長として赴任してきた伊東幸三という地方記者だった。伊東は福島経済専門学校卒の中途入社組だ。福島県いわき市の労政事務所に勤めているころ、下宿先の読売記者と知り合い、一念発起して読売に入ったという。それが20代の終わりで、以来24年、北海道や立川、岐阜など主に地方支局を転々としてきた。

 伊東は1977年春、青森支局に着任するや否や、鍾馗しょうきさまのように太く張った眉を寄せ、

「きょうから連載は俺が見るよ」

 と、ぎょろりと輝く目でデスクや支局員を威圧した。体つきはがっちりとしていたが小柄で、それを大きくみせるかのように肩を怒らせ、「長尺もの」と呼んでいた連載や長めの原稿はすべてデスクから取り上げた。

 記者が原稿をデスク席の提稿箱に差し出す。すると、伊東は「もらうよ」と言いながら、提稿箱から横取りして自分の机の左側に置き、手元に真っサラの原稿用紙を置くのだった。そして、元の原稿をぱらぱらと繰る。

「はてさて」と言ったり、「うーん、ダメだな」と漏らしたりしてタバコに火をつけた。そのうちに夢中になって、咥えタバコの灰がボタボタと原稿に落ちる。その煙が目に染みるのか、それとも気に入らないのか顔を歪め、歌舞伎文字のようなうねりのある字で書き直していった。それもただ朱を入れたり、文章を入れ替えたりする類のものではなく、記者を脇に立たせて、

「お前さんねえ、そのとき見たものを言ってみな」

 と福島なまりで詳細に聞き出し、締め切りの間際まで、自分流に書き直した。最後には、記者の書いた原稿は一枚残らず屑籠行きとなり、新しい原稿用紙に書き直した伊東の文章のみが残ることになった。デスクや古参記者のメンツは丸つぶれで、支局の空気はひどく重たくなった。

 被害に遭った一人が私だった。伊東は入社3年目の私をサツ回りから外すと、青森市役所兼遊軍担当にして、週替わりの企画や年末連載を次々に言いつけた。私が頭を抱えていると、休日に自宅に呼びつけ、「これを読んでみろ」と何冊もの本と自分の新聞スクラップを突き出した。伊東が言うには、水上勉のような小説家でも、初めは人の文章を写したり書き出しを真似したりするところから始めたのだという。

 その本のなかに、辻本が連載した『日本の土――一農家の戦後30年の記録』や『昭和史の天皇』(いずれも読売新聞社)があり、疋田桂一郎や辰濃和男ら朝日新聞の名文家たちを動員した『新 風土記』や『新・人国記』があった。

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疋田桂一郎(『記者風伝』より)

 あるとき、伊東がスラスラと諳んじて見せた文章がある。

「雪の道を角巻きの影がふたつ。

『どサ』『ゆサ』

 出会いがしらに暗号のような短い会話だ。それで用は足り、女たちは急ぐ。

 ……とまあ、こう読者をつかんでいくんだ。手練れだね」

 それは疋田による「新・人国記」青森編の書き出しだった。

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source : 文藝春秋 2022年5月号

genre : ライフ メディア 昭和史 歴史