悪郎伝

記者は天国に行けない 第5回

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みんなあいつに騙された——原子力船「むつ」特ダネのカラクリ。

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 青森県の副知事だった山内善郎よしろうには、「悪郎」というあだ名があった。「人生は運八割」を信条に、難事の荒業、寝技を得意としたからである。

 後年に青森県政の矛盾と汚れ役を一手に引き受け、にこやかに記者たちに嘘をつき、知事にも隠し事をした。それでいて副知事の在職期間が1979年から4期16年にも及んだのは、国策協力——とりわけ原子力開発に加勢する道を選んだ保守県政が、抵抗を封じ込める彼のしたたかな剛力を必要としたためだろう。だから、開発反対派には知事以上に憎まれた。

 まん丸の顔に丸みを帯びた金縁メガネをかけ、機嫌の良いときの井伏鱒二のような顔をしていた。悠揚たる物腰でハッタリを交え、

「あんただから話すんだよ」

 とささやきかける。第2回で紹介した『津軽艶笑譚えんしょうたん』の著者・平井信作の親友である。津軽弁のもっさりとした座談の名手で、憎気がなく、いかにも胸襟を開いた風に見えるので、始末に悪かった。

 県庁の開拓課長時代には、地元選出の大臣の声色を使って農林省に電話を入れさせたり、ニセ電報を打ったりして、補助金や予算を分捕っている。中央省庁や上司を煙に巻き、知事に嘘をつくぐらいだから、若い記者を騙すことなどは朝飯前であった。

 騙されて薄笑いを浮かべている記者がいたとしたら、それは飼い犬の顔をしている。私は入社4年目から読売新聞青森支局の教育担当兼務で県庁を回るようになったが、歯がみしながら、正しかるべき行政にも裏があり、そこにまた闇があるということを思い知った。

 山内は無類の酒豪でもある。若いころは勤めが終わると飲み屋に直行してグイグイと酒をあおり、帰宅すると寝酒を飲んだ。長男が近所のおばさんから、「お父さんは県庁で何をしているの」と声をかけられ、

「お酒っこ、飲みに行ってる」

 と答えたという。

 青森県営農実習場長に就いたのが36歳、課長補佐級だった。そこは青森県金木町にあった。町は太宰治の故郷で、太宰の兄が当時の知事・津島文治である。「ヤマゲン」の屋号を持つ大地主で、津軽の殿様と呼ばれていた。

 そのころの山内は痛飲の果てに吐血するようになり、医者の友人から、

「このまま無茶を続けると命取られるぞ」

 と忠告されていた。そこへ、実習場の卒業式の日が巡ってくる。式が終わり、謝恩会で祝い酒をしこたま飲んだ。いい気分になったところに馬車があった。

 なんでそこに馬車があったのか、と最近になって青森県庁に問い合わせてみたが、式典用か、作業用なのか、古いことなのでよくわからなかった。

 いずれにせよ、「ハイカラな馬車に乗ってみたい」という願望を、山内は前々から抱いていた。

 旧制弘前中学から東京高等獣医学校に進み、関東学生馬術トーナメントで優勝している。戦時中は青森県南津軽地方事務所で、農林技手として軍用保護馬の訓練や指導に明け暮れていた。馬の扱いはお手の物だったのである。

 酩酊して馬車に乗り込むと、高揚した気持ちを抑えきれない。

「それっ」と馬に鞭を一発、モーニング姿のまま、馬車で街中を走り回った。役人の暴走族だ。そのうちに、殿様をびっくりさせてやれ、という衝動に駆られて、金木の知事宅を目指し、その前をモーニングの裾をひらめかせ嵐のように駆け抜けた。

 後日、怒り心頭の知事に呼ばれ、一喝された。

「おめ、酒やめろ!」

「はい!」

 山内は断酒すべきか悩んでいたところだったから、即答し、以後12年間、酒を断った。今ならクビになるところだ。ところが、山内は出世した。彼はその顛末を『回想 県政50年』(北の街社)にこう残している。

〈津島さんは、酒飲みを嫌う人だった。県幹部の連中にも「酒やめろ」と注意していたが、なかなかいうことを聞かない。それが、県庁一番の大酒のみがピタリとやめた。感激した津島さんは、私を畜産課長に抜擢した。

「災い転じて福となす」とは、このことだ。「善郎」ならぬ「悪郎」と陰口をたたかれていた私は、当時から悪運だけは強かった〉

 本当に悪運が強かったのかどうか。彼はそう唱えることで自分を励ましていたのではないか、と私は思う。特に、彼が50代の半ばを過ぎて背負ったものは、鉄面皮を装わなければやりきれないことばかりだった。

②”悪郎”こと山内善郎
 
“悪郎”こと山内善郎

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 青森県は出稼ぎが主要産業という時期が長く続いた。

 青森に生まれた歌人で劇作家の寺山修司が、「わが故郷」という一文を『悲しき口笛』(立風書房)に残している。

〈下北半島は、斧のかたちをしている。大間村から北海岬へかけての稜線が、その刃の部分である。

斧は、津軽一帯に向けてふりあげられており、「今、まさに頭を叩き割ろうとしている」ように見えるのが、青森県の地図である〉

 青森を歩けば、この壮絶な表現が理解できる。斧を振りかざしたくなる厳しさだったのだ。リンゴ生産地で、叩き割られる側の津軽地方も豊かとは言えないが、東の下北半島はいっそう貧しく、北限のサルを抱く深い森林と荒涼たる原野が広がっていた。働く場の確保と企業誘致は県民、県政の悲願であった。

寺山修司
 
寺山修司

 青森県は製鉄所の誘致や大規模製糖事業に失敗した後、1970年代以降、下北半島の付け根にある上北郡六ヶ所村を中心に製鉄、石油精製、石油化学の工場を配置するむつ小川原開発計画を唱える。

 まずは土地買収である。72年9月、田中角栄内閣が開発基本計画を閣議で口頭了解した。その前後から300を超える不動産業者が入り込む。知事と親しい関係にあった三井不動産は800ヘクタールの土地を一挙に買い占め、県議会で追及を受けた。

 時ならぬ地価急騰の渦中に、青森県の側で虫食い状態の土地の買収を指揮したのが、むつ小川原開発公社理事長に抜擢された山内だった。買収用地の大半は開拓者が未開の地に鍬を入れ農地としたところで、山内が開拓課長として広げた土地も多く、顔見知りの地権者が多かったのである。

 ——何という皮肉な巡り合わせだ。

 自分が旗を振って切り開かせた農地を、自分の手で奪う。「六ヶ所村の土になれ」と呼び掛けて入植させたのは誰だったか。信頼を断ち切られた農民の声は悲痛だった。

「おめが土地を取り上げるとはなんだ」

「この馬鹿野郎!」

 農民たちは、山内が副知事に抜擢されても恨みを忘れない。顔を合わせると、彼らは山内を「おい、課長、なんだば」と呼んだ。いつまでも裏切り者の開拓課長なのだった。

 その6年後、今度は漁民からも罵声を浴びる。

 開発用地の買収は終わったが、次は掘り込み式港湾「むつ小川原港」の漁業補償交渉を託されたのだった。

 初めは、大蔵省から派遣されたばかりのもう一人の副知事が漁民たちの前に立った。彼は「この額でシャンシャンと一発で決まる」と幹部に言われ、胸を張って補償額を提示する。ところが漁業権が消滅する2つの漁協の漁民たちに「ひとケタ違う」とあしらわれ、叱られ、提示文書さえ「持ち帰れ」と突き返されてしまった。

 そして、「おめたち、やれじゃ」。またも山内らに知事の命令が下る。彼はこの交渉を半年で解決へと導いた。妥結金額は当初の2倍の133億円に上った。そのカラクリを山内は前掲の『回想 県政50年』で暴露している。少し長いが、事業遂行のためなら、今も昔も役所はこんな脱法行為までやってのけることを示す事例なので、本人の言葉をそのまま引用しよう。

〈漁民の“ゼニ闘争”は、相手が知事でも食ってかかるほど猛烈だった。

補償金の算定は国が示した基準に基づいて行われるが、大きな目安は漁獲高だ。漁獲量は、「漁業統計」や補償額算定の基礎資料とした農林水産省の「農林統計」に出てくる。しかし、漁協側は漁獲量より組合員の頭数にこだわり、一人当たり“ナンボ(金額)”と計算してくるから、県側の積算とは大きくかけ離れるケースが多い。

漁獲量からはじき出した金額が低いと、漁民側は「漁業統計は税金対策で過小申告した数字。実際はもっと多い」とかみ付いてきたりした。交渉が先に進む気配が見えないから、こちらも観念して、最後は捕れないマグロでも捕れたようにしたりして、漁獲量を水増しして積算額を膨らませた〉

 水産関係者まで「理解できない」と言う露骨な水増し補償だったから、私を含め多くの記者たちが批判し、元社会党代議士と住民が県の監査委員会や青森地裁に「不当な政治加算が含まれた違法な支出だ」と訴え出た。水増し支出は地方自治法138条の2(予算などの誠実な執行)に違反しており、政治加算金100億円を北村正哉知事が県に返せ、というのだった。

 だが、裁判所は住民の訴えを認めなかった。監査委員や裁判官たちの目は曇っていたか、節穴だったのである。山内が水増しを告白したのは、最高裁判決から7年以上も後のことだ。

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 実は、このころの私の記憶は少しあいまいなのである。

 それは1979年1月に東京地検特捜部が捜査を開始したダグラス・グラマン事件のために数か月間、本社社会部に駆り出されたためで、東京の鮮烈な体験で、“悪郎”副知事の記憶が一部、飛んでしまっている。

 事件発覚のきっかけは76年のロッキード事件に似ていて、米国の証券取引委員会がマクドネル・ダグラス社とグラマン社の海外不正支払い報告書を公表したことだった。次期主力戦闘機Fー4Eや早期警戒機Eー2Cの売り込みを巡る疑惑である。両社の代理店である商社の日商岩井(現・双日)から資金を受け取った政治家として、元防衛庁長官の松野頼三や元首相・岸信介らの名前が挙がっていた。

 元首相の田中角栄はロッキード事件逮捕の後もキングメーカーとして絶大な権力を保持していたが、その自民党政権が崩壊しかねない危機だったのである。

 全国紙は社会部や政治部を中心に取材班を組み、全国の支社、総支局から若手記者をかき集めて連日、一面、社会面で疑惑を報じた。私も駆り出された一人で、東京のビジネスホテルに投宿すると、指示された社会部新宿支局に勢い込んで乗り込んだ。ところが、応対に出てきた中堅記者の、

「まあ、ゆっくりしていけよ」

 というのんびりした声を聞いて、自分が雑兵ほどにも期待されていないことを悟った。新宿支局長が現れたのは夕方で、ほとんど見向きもされなかった。

 もっぱら私の役割は、グラマン事件取材班の応援に出た新宿支局員の後詰めで、彼らの代わりに都内版向けの記事を書き、その春の統一地方選挙を手伝うことなのだった。黒塗りのハイヤーを回され、事件関係者宅に張り込んだりすることもあったが、その指示も「何かあったらすぐ本社に連絡をしてくれ」という程度のいいかげんなものだった。下手な采配だと思った。現場で半日ほど張り込み、夕方の社会部に電話を入れて尋ねた。

「いつまでここにいればいいんですか」

「他社がいなくなるまでいるんだよ!」

 怒ったような声だ。現場では何も起きず、午前一時半の朝刊締め切りが過ぎ、カメラマンも引き上げる。そこで再び連絡すると、泊りの記者が出て、「あれっ、まだいたのか?」と呆れている。雑兵の存在など忘れられていたのだ。

 同じようなことが後年、何度もあった。目白の田中邸の門前で仮眠したこともある。横並び意識の強いデスクは、同業他社が張り込んでいると、特オチが怖くて、撤収せよ、という指示ができないのだ。小心者は、他人の痛みならいつまでも耐えられる。

 それに腹が立って、現場近くの銭湯でひと風呂浴びて帰ったこともある。理不尽にしごかれたおかげで、私は平らなところなら、机や床や土の上でも眠ることができるようになった。

 東京出張は刺激的で面白かったが、がっかりすることも多かった。

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source : 文藝春秋 2022年6月号

genre : ニュース メディア 歴史