天皇皇后両陛下「玉砕の島」ペリリュー島へ

侍従長 随行特別手記

川島 裕 前侍従長
ニュース 皇室

 一泊二日、正味二十四時間ではあったが、重く、そして中身の濃いご旅行であった

ペリリュー島を訪問した天皇皇后両陛下 ©JMPA

 阿川弘之の「雲の墓標」という特攻隊を主題とした小説がある。天皇皇后両陛下が搭乗された特別機がパラオ目指して真南に飛行を続け、御到着あと一時間位になった頃から、眼下の大海原にミニ積乱雲とでも形容すべき雲が見渡す限り立ち上っていることに気付いた。先の戦争で南方において散った人々の御魂が特別機をお迎えしているように思えた。十年前に両陛下のサイパン御訪問のお供をした際にも機窓から積乱雲を眺めて、同じような感慨を覚えたことを思い出した。

十数年前からの計画

 昨年の夏前に、戦後七十年という節目の年に当たる来年には、是非、慰霊のためにパラオに赴きたいという陛下の強いお気持ちを承り、これは何としても実現せねばということで、御訪問のプランニングが動き出した。実は、宮内庁ではこれに先立つ十数年前に、戦前には日本の委任統治の下にあった太平洋の諸国を是非訪れたいという陛下のお気持ちを体して両陛下にパラオ、ミクロネシア、マーシャルの三カ国を親善訪問して頂く計画を立て、日程の大枠などを検討したことがあった。各国とも飛行場の滑走路が短いので、まず、政府専用機でグアムかサイパンに飛んで、そこを起点として、そこからは短い滑走路に離着陸することに熟達したパイロットが操縦する現地の民間航空機(島から島へ飛び移るイメージからアイランドホッパーと呼ばれる)をチャーターして、三国を順次訪れるという計画であったが、やはりそのようなリスキーな計画に踏み切ることは躊躇(ためら)われた。他にも宿舎の確保や通信体制など様々な問題点が明らかになったので、結局三国御訪問という構想を白紙に戻すこととし、その結果、戦後六十年の年には、せめてもという陛下の思し召しを生かし、サイパンのみであったが両陛下は慰霊の旅を行われた。その後、各国とも観光振興の観点から、滑走路の延長などを進めた結果、今や成田からパラオまで中型旅客機の直行便が就航し、パラオに関する限り最大のハードルはクリアされた。ちなみに、パラオ国の歓迎晩餐会において、筆者は、一九九〇年代に米国からの独立を果たすことに尽力した言わば建国の父祖である指導者たちと同じテーブルに着いたが、当方から、十数年前にアイランドホッパーをチャーターして両陛下の御訪問を実現することを考えたが、結局断念した旨隣に座っていた大酋長に話したところ、「なに? そんなことを考えていたのか。我々は、独立達成のためにワシントンに出かけ、帰りはハワイ経由アイランドホッパーで、マーシャル、ミクロネシアと島々に立ち寄りながらパラオを目指したが、一つ手前のヤップ島で着陸に失敗し機体は大破し、九死に一生を得た」と話してくれた。やはりあの計画の断念は正解だったとしみじみ思った。また、当時のプランニングに際して、仮にパラオに到着することは出来ても、ペリリュー島での慰霊を御日程に入れる場合には、同島への移動は、平底のモーターボートに乗船し一時間以上かけて海上を横切る他はなく、果たして両陛下にそのような過酷なご移動をお願いして大丈夫なのであろうかと考えていた。そして、今次御訪問ではペリリュー島での慰霊が主目的である以上、また、十数年前に御訪問を検討した頃よりも両陛下は随分お年を召された以上、ヘリ投入が不可欠であると考えるに至った。そうなると、ペリリュー島への移動の安全性、さらには時間の制約という観点から、ヘリを搭載し、かつ両陛下が一泊されることが可能である海上保安庁の大きな船をお願いするしかないと考えた。それに、世界中で物騒な話が増えている昨今、巡視船にお泊まり頂くということは言い知れぬ安心感を筆者にもたらすところがあった。官邸もこのアイデアに全面的に賛意を表し、海上保安庁に内々指示をしてくれたので、ようやく今般のパラオ御訪問準備が動き出した感があったのは、昨年夏頃であった。

日系人への深い思い

 これまで、両陛下は、長きにわたって日系人にお心を寄せてこられ、ブラジルをはじめとする中南米諸国や米国、カナダ等日系人が在住する諸国を訪問された際には、必ずそれぞれの国の日系人に会われる行事を訪問日程の中でも大切にしてこられた。日系人の一世の人々、つまり日本を離れて、それぞれの移民先の国で幾多の困難を乗り越えてきた人々に思いを致され、その子孫の人々が現地社会で活躍していることを言祝(ことほ)ぎになられたいというお気持ちがとても強いようにお見受けしていた。十数年前にパラオをはじめとする旧委任統治の国々の御訪問を願われたのは、もとよりあの地域においては先の戦争に際して日米間で熾烈な戦闘が行われ、多くの人々の命が失われたので、お心を込めて慰霊をなさりたいというお気持ちが強かったからと拝察するが、同時に我が国の委任統治の下で、多くの日本人があの地域に移り住み、今でも、その子孫がそれぞれの国で活躍しているという事実、つまりあの地域の人々と日本との間の縁を大切になさりたいというお気持ちがとても強かったと思う。陛下は、パラオ国主催の歓迎晩餐会でのお言葉の中で、パラオに南洋庁が設置され多くの日本人が移住してきてパラオの人々と交流を深め、協力して地域の発展に力を尽くしたことに触れられた後、「クニオ・ナカムラ元大統領始め、今日貴国で活躍しておられる方々に日本語の名を持つ方が多いことも、長く深い交流の歴史を思い起こさせるものであり、私どもに親しみを感じさせます」と述べられた。一説によるとあの地域の人々の四分の一は日本人の血を引いていると推計される由であるが、このような歴史が思い起こされる地域は他にはない。

 今思い返して、この度の御訪問は、悲しみを基調とする慰霊の旅という面と、日本から両陛下をお迎えすることが出来たというパラオの人々の躍り上がるような喜びに出会う旅という面の両面があったように思う。そして、この二つは実は歴史的に深く関連しているので、ここで若干歴史の流れを敷衍したい。

玉砕を伝えた電報「サクラ、サクラ」

 パラオが近代史に登場するのは、当初この地域の島々を領有していたスペインがこれらの島々を、植民地獲得レースにやや出遅れた感のあったドイツに売却した十九世紀末からである。パラオで教会が、「イグリーズ」と称されているのは、スペインによるカトリック布教の名残りであり、新聞が「ツァイツン」と呼ばれるのはドイツ語の名残りである。もし、ドイツが第一次世界大戦で敗北しなかったら、太平洋にドイツ語圏が残ったのかも知れないと思ったが、ドイツの敗北により、日本はベルサイユ条約および国際連盟の決定により、南洋と呼ばれるこの地域、すなわち現在のパラオ、ミクロネシア、マーシャルの三カ国及び米国の北マリアナ諸島(サイパン島など)の委任統治を行うこととなった。南洋庁開設時点の大正十一年に地域に在住する日本人はわずか数十名であったが、以後沖縄県民はじめ多くの日本人が南洋に移住し、昭和十年にはその総数五万一千八百六十一名と、島民の総数五万五百七十三名をわずかながら上回ることになった。委任統治領の武装は禁じられていたため、この地域はサトウキビ栽培、製糖、漁業などを基幹産業とする平穏な地域として発展してきた。陛下は、南洋興発(註:南洋の開発に中核的な役割を果たした国策会社)を率いた松江春次が、かつて敗者の立場を経験した会津藩出身であったことから、島民に対する思いやりがあったので、今でもあの地域の人々の対日感情が良好なのではないかと仰せになったことがある。その頃の南洋は、日本人にとって胸躍る海外の新天地のように思えたのであろう。しかし、我が国の国際連盟脱退、日中戦争の勃発など南洋群島を取り巻く国際情勢は激変し、島々の軍備増強が進められた。そして、日米開戦の翌年十七年六月のミッドウェー海戦における敗北、翌十八年二月のガダルカナルからの撤退により、日本は守勢に立たされ、南洋群島は米軍の攻勢に正面から対峙する重要な軍事的要衝と位置付けられるに至った。米国は昭和十八年末からフィリピン攻略を目標として南洋群島への攻勢を開始し、この結果、多くの島々で日本軍の玉砕が続いた。米側は、昭和十九年九月、フィリピンのレイテ島での戦闘を優位に進めるためにパラオのペリリュー島に日本軍が建設した飛行場を奪取すべく同島への上陸作戦を実施し、以後二カ月にわたり凄惨な戦闘が続き日本軍の戦死者約一万人、米軍の戦死者は約一千七百人であった。「サクラ、サクラ」という玉砕を伝える電報を発電して日本軍の主力が玉砕した十一月には、既にレイテ島での戦闘は米軍の圧倒的な勝利のうちに終了しており、日米両軍あれだけの戦死者を出したペリリュー島での攻防の意味合いは一体何だったのかという憮然たる気持ちになる。南洋群島海域における戦没者総数は、約二十四万七千人、内、軍人・軍属は約二十三万人、一般邦人はサイパンでの約一万人を筆頭に、総計一万五千人を超えると言われている。この内、沈没に伴う戦没者は約十万八千人と推計され、沈没した旧海軍の艦船及び一般船舶は約五百三十隻と言われている。戦没者三十四万人と言われるフィリピンでの悲惨な戦闘や、戦没者二十万人と言われるビルマ戦線など陸地での戦闘のことはよく知られているが、こうして南洋群島での戦闘の経緯をたどると、先の戦争が「太平洋戦争」という名称で呼ばれる所以が実感される(上記の数字は防衛研究所戦史研究センター作成の資料による)。

 戦後、南洋群島は米国の信託統治下におかれ、一九八〇年代から九〇年代にかけマーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦、パラオ共和国が相次いで独立を果たし、我が国と国交を開くまでの間、この地域は日本人の視界から一時消滅した感があった。戦前を知らない世代に属する筆者は、昭和三十年代の終わりに外務省に入省し、ちょうど我が国と東南アジア諸国との関係が活発になった時期だったので、「南洋」という単語に接し、うかつにもインドネシア辺りのことだろうと長い間思い込んでいた。

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source : 文藝春秋 2015年06月号

genre : ニュース 皇室